湖西の山を訪ねて、(新ハイ高島氏例会)-

大谷山・寒風山                  平成190623()

磁部記(地形図:海津、駄口)

コース 小倉7:108:50マキノ駅9:409:50石庭北林道10:0011:35704m12:10大谷山(813.9m)13:15→13:45寒風山13:55→12:20点名牧野④→15:50石庭北林道⇒16:00マキノ駅16:1518:40小倉

今は梅雨の季節である。山行前日は、朝から雨が激しく降っていた。高島さんの例会は「雨天決行」なので、雨の中の山行を覚悟していたら、朝起きてみると、空は抜けるような青さで、雨など降りそうもない天気へと変わっていた。高島さんは「晴れ男」を自認しており、私が参加した例会で雨の中を歩いたのは、「田中山」例会の1回だけである。この日登る山は大谷山。石庭から大谷山へ登り、寒風山から地形図の破線路を下り、道を歩いて石庭へ戻るものであった。山科の大兄と一緒に、大谷山へ初めて登ったのは、6年前の10月だったが、当時、この山は藪山として知られていて、確たる登山ルートは、案内書等を捜しても見付けることが出来ず、かろうじて、粟柄越から笹藪を漕いで行ったり、東に延びる急尾根を登ったりして、三角点へ向かった記録があっただけ。我々も藪漕ぎで尾根を歩くのを敬遠して、最短距離を選んで、大谷山すぐ南から東へ落ちる急尾根を直登したが、石庭から山頂尾根へ向かう、こんな踏まれた古い道があったとは、全く知らなかった。おそらくこの道は、地元の人だけが知っている仕事道であったのだろう。

マキノ駅へは、850分に着く。集合時間の40分前に着いたのに、既に、岩野さんの例会常連の人が屯しており、時間が経つと、次々と車での参加者が集まってきた。何れも高島さんの例会では良く見る顔の人ばかりだが、瀬田の彼の参加は珍しい。その後で、妙里山で会った鈴鹿の彼女もやって来たが、彼女は参加を申し込んでおらず、リーダー了解の元に、員数外のメンバーとして、皆の後を歩くのだと言っていた。最終、926分の列車が到着し、この日の参加者、29+1名全員が揃う。こんな多くの参加者があったのは、高島さんの例会では初めてではないだろうか。

恒例の人員確認、コース説明の後、9台の車に分乗して石庭へ向かう。マキノ町ビッグランドからメタセコイアの並木道を北へ走って、並木の切れ目の川沿いの細い道を西へ向かい、1km程走った石庭部落北の林の側の広場へ車を置く。歩く準備を整え、草むした林の中の道を南へ歩き、林の切れた所から田んぼの畦道を西に辿り、山際のフェンスを通り抜けると、大谷山の登山口。そこは石庭正眼寺の北に当り、道入口に道標が立っていた。左杉の林、右手雑木の林の境界にある、良く踏み込まれた道をジグザグに登って行く。何年か前、新ハイの例会で、大谷山へ登るのに石庭から登る例会があった。その案内にあった道は、新しく開拓された道だとばかり思い込んでいたが、見る限り古い道で、村人が頻繁に使い込んでいたことが伺える道だった。この道があることを、6年前に知っていたら、あんな急勾配の尾根を、フウフウ言って登らずに済んだものをと、今更ながら地元に問い合わせしなかったことを悔やまれてならない。

適当な勾配の道を何度となく切り返し登って行き、方向を西に振ると、杉の林は右手へ移って平坦な尾根へ乗る。登り始めて僅か30分歩いただけだが、汗でシャツはビショビショ。ここまでは道の両側に花の姿は見られなかったが、ここから上に登ると、道の両側にはコアジサイの花が点々と咲いている。道が大きな尾根に乗り、方向が北へ振ると、杉の林は消えて雑木の林に変わる。林の中からは、ヒガラの鳴き声や名の知れぬ鳥の囀りも聞こえてくる。それにも増して、登り初めからムトウ鳥の声が、途切れることなく耳元に聞こえてくる。次第に高みへ登ると、時折、林の切れ目から後方に琵琶湖を眺めることが出来た。辺りに特別太い木は無く、「この山にはエゴノキが多いな」と、鈴鹿の彼女が盛んに言っていたが、花の無い木を見ても、どれがエゴノキか分からない。

登るに従い、道にエゴの花が散っているのを見るようになった。道脇には花の終わったイワカガミの葉が群生している。所々でコナスビやタツナミソウの花も見た。登る道の両側に現れるブナの木に感激し、次第に多くなるエゴの花の絨緞を踏んで登り切ると、平坦な道の両側の林は、エゴの花とヤマボウシの花園。こんなに多くのエゴとヤマボウシが咲き乱れている光景を見たのは初めてだった。ここから緩く登ると、704mのピーク。

緩く下って平坦な尾根を北へ向かう。道の両側は灌木の林で、展望は全く無い。登りに掛かると右手には情緒あるブナの林が広がっていて、登り切った平坦な尾根を、少し進むと道分岐。一般ルートは直進し、谷を越えて県境尾根へ乗るが、この例会では、新しく造られたと思われる右の「展望ルート」を歩く。

「展望ルート」とは名ばかりで、左杉の林、右手雪で斜めに生えている灌木の林の中間を歩き、749mを越えて暫く歩くが、展望は全く無い。ただ、林だけが続いている。下界の様子を見ることを諦めかけ、下りにかかったその時、やっと、東が開けた場所に出た。切り開きは10m幅も無かったが、そこからはマキノの平野、琵琶湖を見下ろすことが出来た。展望があったのはここ一か所だけで、それだけで「展望ルート」と名付けられた様だった。その先、急な斜面を登ると灌木の林は切れ、膝程の笹に覆われた大谷山の南肩に出た。ここから一登りで大谷山山頂。1210分の到着で、この山頂で昼食となる。

6年前に来た時には、山頂広場は小さく、辺り一面膝程の高さの笹とススキの原。その広場の真ん中に三角点が立っているだけだったが、今見ると、山頂の笹は刈り取られた様に無くなり、ススキも消えている。広場の中央には、大きな山名標識板に隠れるように三角点が立っていた。点名「八十千岳」で、標高は813.9m。三等三角点である。

山頂からは360度の大展望で、すぐ北には寒風山があり、その右遠くに、鉄塔の立っている芦原岳から湖北乗鞍の連なり、県境の山々の間に尖った形の鳥帽子山?が覗き、更に右手に横山岳、金糞岳、伊吹山、霊仙山、三国岳、御池岳と影絵のように連なっている。琵琶湖の北には、東山が間近に見えていた。目を南へ転ずると、武奈ヶ岳、蛇谷ヶ峰を見たが、何時もは西間近に三重嶽、大御影山、雲谷山をも見える筈だが、この日は雲に隠れ見ることが出来なかった。また、山頂から寒風山へ向けて、南の尾根にも、シッカリと、以前無かった縦走路が刻まれていた。

山頂には山名標識の他に、「高島ルート」と書かれた標柱が立っていた。6年前に、粟柄越から大谷山までの間に、初めて美浜山遊会の手で、藪の尾根に道が切り開かれたが、その後、昨年に今津の湖西ネット協議会により、国境の愛発越から久多の三国岳へ至る中央分水嶺の尾根に「湖西トレール」が開かれ、順次、道、道標が整備されている。そのルートとは、「国境愛発越-湖北乗鞍-芦原岳-黒河越-三国山-赤坂山-栗柄越-大谷山-原山林道-近江坂-大御影山-大日分岐-三重嶽-湖北武奈-水坂峠二ノ谷山-檜峠-擢谷越-行者山-横谷峠-駒ヶ岳-木地山峠-百里ヶ岳-根来坂-遠敷峠-ナベクロ峠-三国峠-地蔵峠-寺谷峠-久多三国岳」と、長大な中央分水嶺を歩くルートである。このうち、三国山や赤坂山、大谷山など、高島市を通る道筋を、「高島ルート」と名付けたのかも知れない。この殆どのルートを過去に歩いたが、何処の区間を歩いても、素晴らしい尾根歩きを満喫出来る。

山頂の笹の中に座り込み、食べ始める。何時もの連中達は、一段下の南の平坦地に集まって食べていたが、この日は車を運転しての参加で、5月に免停を受けている身では、皆と一緒に座って、勧め上手な守山の彼にアレを奨められたのでは、意志の弱い者にとっては断り切れないと、下へは行かずに、山頂で皆と離れて食べたのだった。食べている間も日は燦さんと輝いていたが、風は吹き荒れ、汗に濡れた肌には寒い程だった。

1310分、リーダーが山頂にやって来る。守山の彼はザックの詰め込みに必死。3人を除いて、皆が山頂に集まると、風の中、高島さん例会の恒例行事により、高島氏作詞、ドイツ民謡「口笛を吹いて」の合唱が始まる。これが終わってはじめて、1215分出発となる。北へ縦走路を一旦下って、登り返す。6年前には出来たばかりで、ハッキリしなかった道も、迷いようもない程シッカリと刻まれている。笹原を登り、灌木の林を抜けると寒風山。山頂の東側は、以前は道さえも何処にあるのか分からない程の藪だったが、笹やススキが刈り取られ、道がハッキリ分かるようにと変わっていた。この山頂で、先程守山の彼のザックの整理で遅れた宇治の彼による、「千の風になって」の歌合唱で締めくくる。寒風山から、地形図の破線を下る。尾根にはシッカリとした古い道が刻まれていた。下るにつれ、灌木の林は美しいブナの二次林の林に変わる。あまり太くはないが、それでも30cm~40cmもあるブナの木が立ち並んでいる。その林を見ながら、標高600m程まで下ると杉の木が現れ、ピークの手前から方向を南に変えて急斜面を下ると、下った鞍部がマキノスキー場への分岐。この例会では、そのまま尾根を進み、やがて舗装された林道へと降りた。その東の高みには、標高369.0m、点名「牧野」四等三角点が埋められていた。そこで一息つき、林道へ下り、緑が池の側を通って、車を停めた広場まで戻る。以前ガタガタ道だったのに、シッカリと舗装路にと変わっていた。全員、一旦牧野駅に集まり、1615分解散となった。

山行翌日の日曜は朝から雨。前日の山行日の快晴の天気が、幻のように思えた。