-近江の山シリーズ(14)(新ハイ森脇氏例会)-- 駒ヶ岳から木地山峠 平成20年10月13日(晴)磯部(地形図:古屋) |
|
コース 小倉6:30⇒8:30木地山9:00→9:10ろくろ橋→9:40ツツミヤ谷分岐(・418m)→10:30主稜線→11:00駒ヶ岳11:15→12:00与助谷山12:55→13:35桜谷山(・825m)13:45→14:00木地山峠14:10→15:55北谷林道→15:40木地山バス停16:00⇒18:40小倉 |
|
森脇さんの10月例会「近江の山シリーズ」、駒ヶ岳から木地山峠へ続く稜線を歩く例会へ参加することにした。この稜線は、中央分水嶺になっている稜線で、3年前に高島ネットの人々の手により、国境愛発越から久多三国岳までの中央分水嶺を、「高島トレール」として整備されたトレールである。平成15年に、日本山岳会が、全国支部の協力で中央分水嶺の走破、調査を行ってその結果をまとめたが、京都支部でも、大御影山から南の園部三国山までの踏査を受け持った。今回例会で歩く稜線は、「高島トレール」の出来る1年前の平成16年9月、京都支部例会で、木地山を出発点として木地山峠から744mまで踏査、池原山を踏んで熊ノ畑へ下っているので、4年振りに逆ルートを歩くことになる。例会1週間前の参加申込みだったので、当然バスは満員。車での参加許可を得た。家を6時30分に出ると、道は思ったより混んでおらず、木地山バス停へは8時半に着く。「木地山」は、旧村名を轆轤(ろくろ)村と言い、明治初期までは、木地業が盛んな村であった。先祖は、鈴鹿山麓の木地師の拠点、小椋村蛭谷から移り住んだと言われていて、この村の神社には、木地師の粗と崇められている惟喬親王が祀られていると聞く。全盛期には80戸を数えたという村も、今では8戸程まで減少し、見る限り人の気配は全く無い。バスの到着は9時の予定だが、9時になってもバスの来る音はしない。9時過ぎになって、やっとバスがやって来ると空。「皆は手前のろくろ橋で下車した」との運転手からの伝言で、慌ててろくろ橋へと急ぐ。この日の参加者は27名で、珍しくも鈴鹿以外の山に参加した瀬田の彼や大久保の長兄、大阪、大久保の彼女が居たが、車での参加は私1人だけだった。 9時10分に出発し、麻生川左岸の道を通り、焼尾谷へ入って行く。ろくろ橋から歩いたのは、焼尾谷入口の畑にネットが張ってあり、木地山バス停から直接谷へ入ることが出来なかったからである。10分も谷脇の道を北へ遡ると、すぐ焼尾西谷との分岐で、道は東谷へと入って行く。谷入口から杉の林が続いており、北山を思わすジメジメした感じの谷だった。次第に谷両岸が近付き、谷道が右岸を切るように登って行くと、右下の谷には幾つもの小滝が現れ、その水音が心地良い。大岩が眼前に現れ、それを巻くと杉林は明るい雑木の林に変わる。谷の流れを見ながら登って行くと、太いブナやカツラの大木の立っている谷広場に出た。ここが焼尾東谷とツツミヤ谷の分岐418mで、ここで休憩となった。更に右の焼尾東谷を遡る。谷は狭くなり、谷の勾配も急になってくる。右岸から左岸、また右岸と何度となく渡り返す。次第に高度を上げ、右手に浅い谷を見て、尾根を巻くと谷分岐。分岐には道標が立てられていて、道は右手の谷へ入って行く。左の谷が焼尾東谷の本谷で、木地山から若狭の河内へ越える駒ヶ越道は左の谷を登っており、焼尾東谷から駒ヶ岳へ登る先達は何れも左の谷を登っているが、高島トレールが整備されてから、右手の谷から稜線へ登る道が開拓されたようで、「方向が違うな」と思う間もなく、道は右手の谷へ入ってすぐ、谷右の急な尾根へ取付きジグザグに登って行く。斜面は急だが、藪の無い疎林の斜面。時折、目に飛び込んでくる色付いたカエデの朱が、秋の到来を予告しているようにも思えた。登るに従い、太いブナも目につき出すようになってきた。急斜面をジグザグに登り、右手から来た尾根に乗り、もうヒトフンバリ急尾根をアエギ登ると、駒ヶ岳から南へ延びる県境尾根が東へ振るピークへ登り着く。尾根には明神谷へ下る森林公園の散策路がシッカリと残っていて、素晴らしいプチの疎林が眼前に広がっていで休憩となったが、朝、暑い程だった気候も、風が冷たく、震える程に寒く感じた。 ブナ疎林の尾根を北へ向かう。ピークを越えた鞍部が・582mで、標高点の測定場所にしては判かりにくい地点だった。ブナの大樹を味わいながら緩く登って行き、右手の若狭森林公園からの尾根が間近になると、一寸した平坦地。ここに「駒ヶ越」の標識が立っていた。木地山の人達が、若狭の河内へ越えた峠で、焼尾東谷をそのまま登れば、この地点へ登り着く。峠道は、ここから県境尾根を駒ヶ岳の方へ登り、山頂手前で河内谷へ下っており、駒ヶ越は、変則的な峠と言っても良い。今ではこの古い峠道を辿ることは出来ない。森林公園からの道の交点には道標が立っていて、ここから緩く下って、最後の登りにかかる。14年前に、単独で森林公園から登ってきた時には、この尾根に一面に笹竹が生え広がり、踏跡すら分からない程に笹竹が密生した尾根だったが、今では藪は全く消えている。この尾根で、ムラサキアブラシメジモドキを採って帰り、夕食の糧にしたのも、夢のような話だった。急坂を5分も登り、50m程北へ向かうと、駒ヶ岳山頂。山頂の東面が開けている。左手に湖北武奈ヶ岳が横たわり、その左奥に見えるのが三重嶽で、右手に山斜面が禿げているのは箱館山。山間に琵琶湖が見え、その向こうに伊吹山や金糞岳が黒く影を落としている。三角点は、山頂に積み上げられたように2m程盛り上がった小山の上に立っていた。標高780.1mで、点名は「寺山」。標石はシッカリと磁北を向いていた。この山頂では、朝に我々の前に木地山から登ってきた神戸の4人が食事中。 まだ昼食には早く、15分の休憩で出発となる。山頂から50m程南へ戻った地点から、西へ尾根を下って行く。尾根には藪も笹も消えていたが、県境尾根と違って、目に見えてブナの木が少なくなってきた。それでも、小さな丘を二つ越えた右手に延びる緩い広い尾根には、素晴らしい疎林のブナ林が広がっていた。そのピークから尾根が南へ振り、杉林に入って尾根が狭くなると、左下に林道が現れる。木地山の神社脇から来ている林道で、4年前に掘削中だった林道も、作業が中止になったのか、草がボウボウ。所によっては、全く林道の様相が残っていなかった。暫くは、林道を左下に見て杉林の尾根を歩き、もう一つのピークを越えて下った次のピークが、二重山稜になっているピーク。反対側から来た時には、どちらの尾根を歩くか迷った地点だったが、今では南の尾根にシッカリと踏跡が付いていて、迷うことはない。山稜に囲まれた凹地は草がボウボウ。696mを過ぎ、尾根が細くなり南へ向かい、緩く登って南へ延びる尾根のある盛り上がりから、西へ登ったピーグで丁度12時。以前は名前の無いピークだったが、「高島トレール」が出来て、ルート地図を発刊するようになってから、このピークに名前が付いたようで、山頂には「与助谷山」と書かれた標識が立っていた。調べても分からなかったが、おそらく木地山神社脇からこのピークに延びる谷名が与助谷なので、この名が付いたのであろう。 このピークで昼食となった。山頂は疎林で、風が吹き抜けて寒すぎて、殆どの人は南斜面の陽だまりに座り込み食べ始める。何時もの集団は、例の如くにバーナーを囲んで飲み始めている。ジット座っていると、寒さが込み上げてきて、防寒具を着込んでの食事。何時もなら、あの方々が側に居て、おすそ分けがあるが、この日は知っている大阪の彼女も大久保の彼女も近くに姿はなく、二人で座った瀬田の彼と分かち食べ合う。 12時55分に出発。最近の山行は、長くても40分の昼食時間。この日は飲まなかったせいもあり、時間が余り手持ち無沙汰だった。ピークを下ると、広い平坦な鞍部へ下りる。ここが昔「池河内越」と呼ばれた峠で、木地山から若狭の池ノ河内へ越える道の峠であった場所である。木地山から尾根に乗ってこの峠を越した峠道は、松永川の上流の奥西谷へ下ると聞いていたが、ここから見る限り、峠道の道跡は全く消えてしまっていた。 しばらく、広い疎林の尾根を緩く登ると、再び草の生い茂った二重山稜の尾根へ出る。ここも迷い易い尾根だったが、ここにもシッカリと踏跡が付いていて迷うことは無さそうだった。尾根の両側の林はコナラやカエデの木が多く、ブナはたまにしか見ることはなかったが、右手の斜面にブナの林を見るようになって、急な斜面を登ると825mのピークへと登り着く。このピークを、4年前に中央分水嶺山行で、また、昨年には小栗、百里ヶ岳山行でも踏んでいるが、その時には人工物は何も無い山頂で名前の無いピークだったが、今では道標が立っていて、このピークを「桜谷山」と表記されていた。これも「高島トレール」が出来たことで付けられた山名で、このピークが北谷の支流、桜谷の源頭にあるので名付けられた名称なのであろう。 このピークで休憩していると、大山崎の彼が「図根点」の標石があると呼びに来る。これまで二度このピークを踏んでいるが、気が付かなかった標石だった。図根点とは、「図根三角点」とも言い、周囲の三角点から観測し、実際の三角点上では観測し得ない点を、前方法(二点以上の既知点から求点へ向けて万向線を引き、その交点で求点の位置を求める平板測量の方法)により、位置を決定したもので、構造物(無線塔や建物)など、測量することの出来ない場所に使われる点である。本来、図根点は、三角測量後の細部の測量に使い、標石の埋蔵はしていなかったが、重要な場所や再現の必要な場所に限られ、標石として設置されたものである。点の記などは無く、地形図にも記載されていない。10分程の休憩で出発する。ピークを西へ50m程下り、道標から南へ急斜面を下って尾根に乗る。踏跡は微かで左手へ下らないと、上根来へ下ってしまいそうになる斜面である。尾根に乗ったら、左杉林、右手雑木の林の尾根を15分も下ると、木地山峠へ下りる。木地山峠は木地山から若狭遠敷の上根来へ越える峠で、木地山の木地師達が繁く通った道の峠である。木地山から他の地に越す峠は、駒ヶ越、池ノ河内越、木地山峠、その他、近江の小入谷へ越えるシチグレ峠があるが、古道の峠の様相を残しているのは、この木地山峠だけである。峠には小さな祠が建っていて、祠には一体の地蔵尊が祀られていた。 峠から東へ下る。下ってすぐはシッカリと昔の峠道の跡が残っていたが、谷へ下ると道跡は踏跡に変わる。杉林の中の消えかかっている踏跡を辿り、谷を左岸へ渡ると、右下に北谷本谷を見ながら、急斜面をへつりながら斜めに下って行く。ホリ谷を越えると本谷へ下り、谷を渡って今度は右岸の斜面に切られた道を下る。右からきたサンバンソウ谷に合って谷分岐に下りれば、後は谷を何度か渡り返して、ひたすら下るだけ。朽ちかけた小屋まで下れば、北谷林道までは間近。その後、谷右岸の斜面に切られた道を通り、谷に下って谷床を下流へ向かえば北谷林道に出る。 杉林の林道を20分も歩くと、木地山へと戻った。16時に、バス停で皆と別れて一人車で帰る。湖西道路の大津付近で大渋滞に巻き込まれ、家に帰ったのは18時40分だった。 |
|