京都近郷の山(新ハイ金谷氏例会)

音羽山から岩間寺                                                                 平成160417()

磯部記(地形図:京都東南、瀬田)

コース 京阪大谷駅8:058:30蝉丸神社→9:30休憩所9:409:55音羽山(A593.4m)10:05→11:05千頭岳11:35-12:00大平山(464m)12:50→府道13:15→14:00奥宮神社14:10→4:30岩間寺15:0515.30石山駅

昨年11月以来、5ヶ月振りに行われる新ハイ金谷さんの例会は、昨年1月に雨のために中止になった「音羽山から岩間寺」の実施であった。この日は毎年417日に行われている雷神祭法要の日であり、バスが石山寺まで運行されるので、下山路を歩かなくて良い。集合場所は京阪大谷駅とあるが、すぐ近くの蝉丸神社に集まる。この神社の祭神である蝉丸は盲目の琵琶の名手で、この逢坂山に隠棲していた。一説には醍醐天皇の第4皇子と言われているが、その素姓は定かでない。それより、「これやこの行くも帰るも別れては知るも知らぬも逢坂の関」を詠んだ歌人として知られている。そんな人が何故神社に祀られているのか不明。また、この境内には、標高を正確に測定するために設置された一等水準点があるが、誰もそれを見に行こうとする人はいない。

こんな神社へ830分に集合。参加予定の人で姿を現さない人が2名がいたが、合計20名で定刻に出発する。どうした訳か、ここには守山の彼の姿は無かった。

神社の階段を上り、社の横から山腹の道を歩き、東海自然歩道に出ると国道1号線を越える逢坂山歩道橋を渡る。この逢坂山の名は、昔、武内宿祢が忍能王を討とうと追いかけた時、この場所でぴったりと出会ったことから「逢坂」と名付けられた峠である。古くから京と近江の交通の要所になっていて、逢坂の関が設けられていた場所でもある。

この歩道橋を渡るとすぐ、急登が待っている。道には階段が切られているが、自分の歩幅に合わず歩きにくい。辺りは杉の林でジグザグに登って行く。と、後からフウフウ言いながら守山の彼が追いついてきた。大津駅から歩いてきて、時間に間に合わなかったのだとか。これでこの日の参加者は21名となった。

杉の林が雑木の林に変わると、ミツバツツジの回廊を登る。ピンクの花が春の到来を告げているよう。静かな林の中、あちらこちらからヤマガラやシジュウカラの囀りが聞こえてくる。登りの途中、左手に琵琶湖や比叡山の姿を眺めて息を整え、再び登り出す。急登が終わって、分岐を左へ向かい、休憩所で休む。丁度、1時間の登りであった。

ここから緩い坂を25分も登ると、音羽山山頂。三角点は紅白の鉄塔のある山頂広場の中央に立っていた。点名「小山」で、三等三角点。標高は593.4mである。

山頂は南北が開けていて、この日一番の展望の場所。北を見ると、すぐ近くに如意ヶ岳から大文字山へと連なりが横たわり、大文字の山頂から左へ流れる尾根は、花山天文台、清水山稲荷山へと続く。遠くには比叡山がどっしり構えているが、何時も見える筈の蓬莱山や愛宕の山、はては琵琶湖の水面はモヤに霞んで何も見えない。南にはこれから向かう千頭岳、西千頭岳がボンヤリと見えていた。

音羽山の山名は、垂仁天皇の御世に大国不遅が夢の中で山中に立っていると、白衣の老人を背に乗せた大きな鳥が飛来し、「この山は霊山なれば、観音浄土にせよ」と老人が言って飛び立った。夢から覚めてこの山へ登ってみると、老人の木履が残されていたことから、この山を開山し祠を建立したのが音羽山権現社の始まりで、それから音羽山と名付けたと言われている。中腹に牛尾観音があることから、牛尾山と呼ばれたこともある。

また、都に近かったことから、古くから知られ、歌にも詠まれている山でもある。音羽山けさ越え来ればほととぎす梢はるかに今ぞ鳴くなり 紀友紀

秋風の吹きにし日より音羽山峰の梢も色づきにけり 紀貫之

山頂でゆっくりと展望を楽しんだが、先はまだ長く、後髪を引かれながらも出発する。尾根を下り、登り返すと牛尾観音からの道に出合う。牛尾観音は通称名で、正式には牛王山法厳寺という。ここが中大兄皇子と藤原鎌足の蘇我入鹿討伐の地とも伝えられていると聞く。その道を右に見て、小さなピークを二つ越えると、東海自然歩道北廻り道の分岐。この道を下ると石山から笹間ヶ岳、太神山を越えて信楽へと東海自然歩道は続く。その分岐には「右山道左石山寺」と彫られた石柱が立っていた。

この日の例会では千頭岳へと真っ直ぐに登った。尾根を通る道の両側にはシロモジやミツバツツジの花が途切れることなく続き、足元にはシハイスミレの花が点々と花を開いている。ピークを一つ越えて登り切ると千頭岳。115分の到着だった。

千頭岳は標高点600mのピークで、三角点はない。三角点は西にある送電線鉄塔の立っているピークに置かれている。この標高点の山を「せんずだけ」「せんとうだけ」と二通りに呼んでいるが、前者は南の相月で呼ぶ名で、後者は陀羅谷で呼んでいる山名。何れも間違ってはいないと内田氏はその著書に書いている。ただ、山仲間の間では、この山を「せんずだけ」と呼んでいる。

このピークは醍醐方面へ向かう道と、岩間寺から宇治、鷲峰山を通って室生へ向かう東海自然歩道南廻り道の分岐になっていて、東海自然歩道の標識と、「南醍醐北小野」と彫られた古い石柱も立っていた。折角来たのだからと、13名が西千頭岳にある二等三角点を見に行く間、8名がこの場で待ち、ゆっくりと寛ぐ。明日にも連ちゃんで歩くことを控えている二人は、当然、体力温存の残り組。

30分程ゆっくりした後、南へ下り、ピークを一つ越えた反射板のある大平山で昼食となる。時間は測ったように12時。気温が上がり暑さが厳しく、日影を探しての食事だった。展望が良い場所は日がカンカン照りで、山頂の日陰へはリーダー、高槻の彼女、3人娘と数人が陣取る。ここに守山や瀬田の彼の姿はない。この日の昼はアルコールは無しで、ひたすら食べることに専念する。自分のばかりでなく、よそから廻ってきた物をも~

1250分、出発。良く整備された道を南へ下り、府道へと下りる。府道を東へ100mも歩くと、そこが東海自然歩道の取付き口。6年前、県境歩きで府道から直接南のピークへ登ったことが信じられない程だった。東海自然歩道は浅い谷を登り、山腹を縫うように南へ向かうと、やがて、車道へと出て尾根に乗り、その先の奥宮神社へと着く。この展望台からは瀬田方面を目の下に見下ろし、笹間ヶ岳、太神山、堂山ばかりでなく、遠くは金勝アルプスの山々をも一望することが出来た。

道を南へ向かい、大きなパラボラアンテナのある岩間山、443mの西を通って先へ向かうと、岩間寺へ出る。この尾根は県境尾根になっていて、その滋賀県側には高さ42mという日本一の大桂の大木が立っていた。その木を見て、岩間寺へ参拝する。

岩間寺は岩間山正法寺といい、西国三十三所の第12番観音霊場に当たっている。宗派は真言宗で、本尊は千手観世音菩薩。この観音像が衆生の苦しみを救うために、毎夜136の地獄を駆け回り、早朝に岩間寺の本尊に納まった時、観音様の肌はビッショリ汗をかいていたという伝えから、汗かき観音とも呼ばれている。この寺は元正天皇が養老6(722)に病気になった時、加賀の白山を開いた泰澄大師が加持祈祷して、病気を快癒したことから、天皇の勅命を受けて、岩間山を霊地と定め、堂宇を建立し、桂の大木で千手観音像を彫刻して堂に安置したのが始まりと言われている。寺伝によると、この寺は度々落雷により堂が焼かれたが、大師の法力で雷を捕らえこらしめた。雷はこれからは雷火の災害はかけませんと泉を出し、改悛したので弟子にした。それ以来毎年417日に雷神祭を行い、雷避けのお守りを参詣する人に授けているのだと言う。その祭の恩恵を被り、ここから歩かずに、バスに乗ることが出来たのだった。また、この寺には蛙池があり、野晒紀行の旅から石山の幻住庵へ戻った芭蕉が、この寺を訪ねて詠んだのが、「古池やかわず飛びこむ水の音」の句だと言われている。この句は知っているが、この岩間寺で詠まれた句だとは、この時まで知らなかった。

155分、満員のバスにユラれて、JR石山駅で解散。帰るには時間が早く、石山駅前のラーメン屋へ15名が集まり、リーダーの「病気快気祝い」と称してビールで乾杯。その後、散会とした。