-続・鈴鹿を歩く88(関西ハイク後藤氏例会)

阿弥陀ヶ峰から霊仙山               平成270628(曇り山ガス)

磯部(地形図:彦根東部、霊仙山)

コース 石山駅6:507:50いぼとり駐車場8:058:15浄水場広場8:20→9:15 Ca510m 9:20→10:20阿弥陀堂跡峰10:25→10:40阿弥陀ヶ峰10:45→11:10昼食(Ca810m)12:00→12:20柏原道分岐→13:10避難小屋13:20→13:30経塚山→13:45霊仙山三角点13:50→14:00経塚山→14:15お虎ヶ池14:30→15:50ビン坂峠15:55→16:15上丹生→16:25浄水場広場16:3517:55石山駅18:0618:25京都駅18:3619:00小倉駅19:00

ビン坂道から霊仙山へ登ったのは、平成239月の例会が初めて。その時は、時間切れで阿弥陀ヶ峰を踏むことが出来ずに、谷山谷道を下ったが、そのリベンジで、平成2510月に、逆ルートで阿弥陀ヶ峰から霊仙山、ピン坂道の周回ルートが持たれた。残念ながらこの例会へは、娘夫婦との付き合いで、米原にあるローザンベリー園で一日を過ごしたのて参加することが出来なかったが、今回の例会で、やっと、二年前に歩いた阿弥陀ヶ峰から霊仙山を踏み、ビン坂道を下るルートを周回することが出来た

石山駅を650分に出発。この日は、宝塚の彼は不参加で、乗員3人で名神を走る。車窓に見える鈴鹿の山々は厚く雲に覆われ、竜王を過ぎると雨まで降って来た。米原へ着くと雨は上がって、ホッと一息。集合場所の「いぼとり地蔵」広場へは、750分に到着。「いぼとり地蔵」とは、東の小高い林の中から流れ出た水が、イボを取る霊験あらたな水として、イボに悩める人々の身代わりに祀られた地蔵尊のことである。最近では、その水が、おできや汗疹にも効果があり、肌も奇麗になると信じられ、水を貰いに来る人が多くなったと聞いている。何時もより集合が早く、85分、参加者32名全員が集まると、谷山谷浄水場脇の道広場へ移動。そこで人員点呼、この日のコース案内が行われた。「815分に出発し、浄水場東の尾根へ取り付く。これ迄山田さんの例会で、ここから阿弥陀ヶ峰へ2回登っているが、2回とも、尾根先端からの古い阿弥陀堂への参拝道跡を通り、平坦尾根へ登っていた。今回は参拝道跡を登らずに、尾根に取り付くとすぐ、50m東へトラバースして、杉林の急斜面をジグザグに登って行く。途中で道跡を横切るが、左斜めに登って行く道跡には目もくれず、広い緩い杉の疎林の斜面を登って尾根へ乗る。左へ廻り込んで急斜面を登ると、東西へ延びる尾根の先端の平坦地、Ca510mへ乗った。休憩後、920分に出発。尾根を東へ向かうと細い岩尾根。岩の間を抜けたり、岩を乗り越えたり巻いたりの歩きだった。岩場を抜けると雑木林の尾根。この地点に左から参拝道跡が現れる。以前、阿弥陀ヶ峰へ登った時、ここへ登ってきたので、岩の細尾根を歩いた記憶はない。ここから尾根の南下を通る道跡を歩くと尾根に乗り、左前方に緩い斜面が広がっている。北斜面の杉林に添って歩き、シダの茂った草地を登ると、登る方向が東南へ変わり、緩く登ると平坦なピークへ着く。先頭の歩きは早く、前を歩く人の姿は見えなくなっていたが、ここから、方向違いと思われる左へ延びる尾根を下る。以前、尾根の両側に手入れされた杉の木が整然と立ち並び、その間を通った記憶があるが、今見ると、下払いがされていないので、ただの杉の立ち木。鞍部に来ると、左下から林道が来ていた。この辺りから、浄水場から東へ延びている芋ヶ谷林道へ下る古い道があった筈だが、道跡は林道で壊され、分からなくなっている。鞍部から、杉林の疎林の細尾根に付いている道跡に添って登ると尾根が太くなり、道跡は尾根の南側へ移る。そこには、何抱えもあるような太いケヤキの木が立っていた。谷山谷横道から見ても、ハッキリ分かる程の巨木である。この木をバックに、一緒に歩いてきた奇麗どころの写真を撮り、一段上の尾根へ上がると、真新しい赤い燈籠の立っている阿弥陀堂跡。ここで休憩となる。

霊仙山は、古くは霊山と呼んでいた。霊山には、霊山寺があったと伝えられ、白鳳九年(680)、役行者がこの山を開山し、養老元年(717)、泰澄がこの山へ登り、大日如来の尊像を安置して霊山寺を興したと伝えられている。この霊山寺の位置は諸説あり、確定していないが、阿弥陀堂、釈迦堂、薬師堂があったことは、記録に残されており、阿弥陀堂跡が、休んでいるこの場所で、釈迦堂は、経塚山の付近にあったと言われているが、薬師量が何処にあったのかは、位置の記述がなく、薬師堂の場所は、分かっていない。

阿弥陀ヶ峰は、醒ヶ井枝折集落における雨を神事の場であった。この行事は、昭和78年頃まで続いていたが、その後行われていなかった。昭和53年に、枝折の能勢八郎氏達が、途絶えた雨乞神事を再会しようとしたが、阿弥陀堂の場所が分からなかったので阿弥陀堂の側に茗荷が生えている言い伝えを頼りに、茗荷を探したところ、ここにある大の付近に茗荷が見つかり、この場所を、阿弥陀堂の跡としたのだと言う。そう言えば、前にこの場所へ8月に来た時、茗荷を採ったことを思い出す。また、堂跡には、「霊仙三蔵供養塔」と書かれた木柱が立っていたが、霊仙は、法相宗奈良興隆寺の僧で、延暦二十二年(803)、遣唐留学に選ばれ唐に渡り、7年後、「心地観経」をインド語から中国語へ翻訳した功績で「三蔵」の称号を与えられた僧である。その後、日本へは帰っておらず、中国で客死しているので、直接、霊山寺に関係がないが、醒ヶ井の出身との伝承から、ここに供養塔が立てられたであろう。勿論、山名の霊仙山には、関係ないと思われる。

休憩後、勾配の緩くなった尾根を東南へ15分も登ると、阿弥陀ヶ峰山頂。以前にあった笹藪は消え去り、スッキリした山頂に変わっていた。山頂には、山名標識も何もなく、林の中の岩の多い広場に過ぎず、登頂の感激はなかったと言って良い。

1045分、ここからはサブが先頭で出発。阿弥陀ヶ峰から柏原道までは、初めて歩くルート。林の葉が茂り、展望が利かず、尾根がどの方向に続いているのか分からない程の斜面。磁石で確認し、林の中の急斜面を東へ木に把まりながら下り、東の低いピークへ登る先頭を下った筈のサブの姿がない。サブと数人が、右下にある阿弥陀ヶ峰の池を見にいったとのこと。先に進むのも気が引け、サブが戻るのをジット待つ。サブの姿が見えたで東南の尾根を下る。尾根に乗ると杉林の尾根で、尾根には踏跡が現れた。踏跡を辿り、ほぼ、平坦な尾根を東へ向かい、南へ延びる尾根の根本を抜けると、尾根方向は東南へ向く。尾根の曲がり角の東斜面は雑木の林。時間は早かったが、ここで昼食となる。12時、午後の行動開始。尾根を東南へ300m程歩くと、左下に梓河内から来た登山道と合う。これから道は、シッカリした道となった。道の方向が南に振って、ぶつかった尾根の西下のトラバース道を歩くと、20分で柏原登山道へ出た。ここから東方の視界が開けていたが、緑の尾根が続いて見えているだけ。目の下は、幾理谷の源流であった。

尾根の東下の道を南へ向かう。尾根を右に巻くとその上に継子穴(ママコアナ)がある。穴は石灰岩が水で溶解された穴で、深さ22m、総延長55mの穴である。名前の由来は、後妻が、夫の不在時に、邪魔にしていじめていた前妻の子を、この穴に投げこんだが、彼女が家に帰ると、坊さんに助け出された子供が、先に帰っていた伝説に由来している。

皆んなが継子穴を見に登っている間に、前に見たから見ないと、鈴鹿の彼と伊勢田の彼女と3人が、先へ進んで行くと、大姉が、後ろを付いてくる。谷源頭の急斜面をユックリ登って上で待っていると、やっとサブ達がやって来た。ここから列に加わり坂を登ると、谷山へ向かう尾根の分岐。峠を下ると鞍部が谷山谷道の分岐で、ここから急坂の登りが始まる。急坂を登り、林が切れると、辺り一面ガスに覆われ、50mも視界が利かない。その上、思った以上に風がキツく、兎に角、避難小屋へ飛び込み、一時を凌ぐ。ここでバテていた名古屋の彼と付き添いのリーダーを待つが、あまりの遅さに、サブがリーダーと連絡をとり、先に出発して三角点へ登ってから、お虎ヶ池で待ち合わせることになる。

1320分、出発。経塚山まで10分で登る。風がキツク、ガスで視界が利かず、先に出発した一団の人達の姿は、ガスに隠されて全く見えない。小屋では、三角点へ行かずに、虎ヶ池へ下ると言っていた人が何人かいて、私も行くのは止めようかと思ったが、三角点に行かないと言っていた鈴鹿のお兄が行くと言ったのでは、付き合うしかなく、三角点へと向かった。強い風に煽られながら、何も見えない深いガスの中を、足元の踏跡をヒタスラ辿って、15分登ると、ガスの中に屯する皆んなの姿が見えた。1345分の到着で、最初に三角点へ挨拶する。霊仙山、標高1083.6m、点名も「霊仙山」で、二等三角点である。霊仙山は、古くは霊山と呼ばれていて、明治75月に、犬上郡落合村、今畑村、八村が合併して、霊山の麓にあることから霊山村にしようとしたが、あまりに恐れ多く、霊仙村にしたことに起因したのか、明治10年代から、霊山が霊仙山と呼ばれるようになったと推測されている。公式には、霊仙山という山名は、明治16年の滋賀県統計書に載ったのが最初で、明治24年の近江國新町村全図の地形図には、霊山は、霊仙山と記されている。夫々に、ガスの中で写真を撮ると、皆下っていく。最後を確認して下ろうとすると、今頃登ってくる3人の影。その中に、「三角点へは行かない」と言っていた大姉がいではないか。これで、リーダーと名古屋の彼以外は、全員、三角点峰へ登ったことになる。皆んなが下ってから時間が経っていたので、3人を急がして、すぐ下ることにした。経塚山にタッチして、すぐ東へ下ると、15分でお虎ヶ池。そこには皆んなが待ってくれていた。お虎ヶ池の名称は、伊吹弥三郎とこの山に住む山姥のお虎の伝説で付けられたもの。この池は、丹生方面での雨乞神事の池で、ピン坂道は、この為の参道なのだろう。

1430分、登山道を西南へ。低い尾根を越えると西へ草地を下る。雑木林へ入ると急斜面の尾根。下生えのない急斜面は、注意しながら下っても、何人もの人達が、滑り転んでいた。下る途中、先頭は、右へ派生する尾根へ入り込んだが、気が付いたのか、呼び戻されたのか、軌道修正。急尾根を下り、細い平坦尾根で休憩を取り、足を休める。この場所では、山頂のガスは嘘みたいに消えていて、琵琶湖までも見直すことが出来た。

“細尾根から、再び、急斜面の下りになると、左からピン坂道が現れる。後はこの道に添って下るだけ。道跡に添って下り、傾斜が緩くなると古い榑ヶ畑道を左に分岐するが、その道跡は消えてない。平坦地へ下ると、正面は、402m。サブが左へ下る地点を勘違いしたのか、道を探しウロウロしてたが、右の遺跡を先に進んで待っていると、やがてサブが戻ってきた。シッカリ付いている榑ヶ畑道を辿り、北西へ向かうと、ピン坂峠へ着く。ここで息を整え、峠道を下ると、上丹生集落の橋へ出て、ここで解散となる。

1635分、浄水場を出発して名神へ乗ると、空には青空が広がり、陽まで出ている。朝の雨や、山頂での強風やガスが、嘘のように思えてならなかった。