--続・鈴鹿を歩く87(関西ハイク後藤氏例会) 上平寺から伊吹山 平成27年06月14日(晴) 磯部(地形図:関ヶ原) |
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コース 石山駅6:50⇒7:50笹尾山駐車場8:15⇒8:30上平寺広場8:35→9:30上平寺城本丸跡9:40→10:10三角点峰10:15→11:05正面登山道五合目11:15→12:40伊吹山三角点13:40→14:00八合目→15:35三角点峰→15:50弥高寺本堂跡16:00→16:15上平寺尾根分岐→16:45伊吹神社17:00→17:05上平寺広場17:10⇒17:25笹尾山駐車場17:30⇒18:50石山駅 |
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「続・鈴鹿を歩く」の例会で、鈴鹿以外の山を歩くのは、今回が初めて。登る山は、伊吹山。上平寺から上平寺尾根を登り、正面登山道五合目へ出て、下りは八合目から中尾根を下るバリエーションルートで、上平寺へ戻る。これ迄に歩いたことのないルートだった。石山駅を6時50分に出発。名神を走って関ヶ原インターで下りると、関ヶ原の戦いで西軍石田三成が陣を置いた笹尾山の駐車場へ集合する。参加者全員が揃うと、9台の車に分乗し、上平寺集落西にある広場へ移動。この日の参加者は36名だったが、いつも励まし合って登る鈴鹿のお兄が不参加では、心細い限りだった。 8時35分、広場から東へ向かい、集落を通り北へ向かうと、正面が、伊吹神社。伊吹神社の境内には、京極氏の館があったと言うが、今ではその跡しか残っていない。京極氏とは、宇多天皇の孫である雅信が、源の姓を賜り降下したが、五代目の信綱に4人の子供がいた。何れの子供も源の姓を名乗らず、長男重綱は近江大原に住み大原氏を、次男高信は高島郡に住み高島氏を、三男泰綱は京都六角館と南近江六郡を貰い六角氏を、四男氏信は京都京極館と北近江を貰い京極氏を名乗った。所謂、湖東地方の豪族の一族である。 境内に入り、参道を西へ向かうと、正面の石段の上に伊吹神社の神殿がある。伊吹神社の創建は不詳であるが、泰澄がこの地に来て上平寺を建立した時、鎮護の神として勧請したと伝えられている。祭神は、素戔鳴尊と白山権現を祀っている。北にある京極氏館の庭園跡を見て、階段下から神社に手を合わせ、左にある道を登って行く。尾根を右へ巻くと谷を渡るが、歩き出して間もないのに、後ろから「ヒルだ!」の声が聞こえてくる。辺りは杉林で、草津の彼が言うには、「この谷の辺りは、ヒルの巣窟だ」とのこと。まさか、伊吹山山麓にヒルがいるとは思ってもいなかったが、その後も、杉林を抜けるまで、「ヒルだ!」「ヒルだ!」の声が聞こえてきていた。 南へ延びる尾根下の道を登り、尾根に乗ったら方向を北へ変える。杉林の尾根を数え切れない程ジグザグに登って行くと、やっと杉林を抜けて、趣ある雑木林の平坦地に出る。ここが上平寺城の三の丸跡。次に二の丸跡を過ぎて、その先の高みへ登ると、上平寺城本丸跡で、ここで休憩となる。上平寺城は、山麓に京極氏が館を建てた時、東山道と北国脇道、濃尾平野を見下ろすこの地に、詰めの城として、永正二年(1505年)京極高清が築いた城である。その城も大永四年(1524年)に京極氏の内紛により焼失してしまったと言う。本丸跡は平坦な広場になっていて、一面と言う程クララが生い茂り、花が咲いていた。本丸跡を下り北へ登ると、すぐ北に谷状に見える大堀切がある。ササユリの可憐な花を見て登って行くと、弥高寺跡へ向かう道分岐。右を取り、ジグザグに登り、右、左と大きくカープを切ると平坦な道になり、左に弥高尾根道を分けて急坂を登ると、三角点ピークへ着く。山頂一面に笹竹や潅木が密生し、初めて来た者は、三角点が何処にあるのか分からない程。サブに三角点のある方向を聞いて、西方へ藪を20mも漕いで行くと、四等三角点が見えていた。標高838.7m、点名「城跡」である。このピークから北の展望が開け、上平寺越を通るドライブウエーや川戸山、その左には、高く高く伊吹山が見えていた。三角点に興味のある人達が、次々に三角点を見に行った後、まだ伊吹山山頂までは遙かに遠く、10時15分に出発し、踏跡を北へ向かう。緩く下って僅か登ると平坦なピーク。林の中を歩くと、時折、林の切れ目から伊吹山の姿を垣間見る。尾根方向が北西に変ると尾根道は、尾根の南下を通るようになり、間もなく中尾根とトラバース道の分岐点。下山時には、中尾根を下ってこの地点へ下りるが、登りでは、ここからトラバース道を通って、正面登山道の五合目へ出ることになる。 不確かになってきた踏跡を辿り西へ。浅い弥高川右俣の源頭の谷を渡ると、尾根を大きく右へと巻く。次に弥高川左俣の谷へ下り、対岸の細い急な切れ目を登ると、樹林帯斜面のトラバース。展望はなく、大きなアップダウンもない道であった。嫌になってくる程ヒタスラ斜面を横切る道を歩き、小さな谷を越えて登ると、広大に広がる草原の東端へ飛び出た。丁度、この高さが正面登山道の五合目辺りで、ここで遅れている人の到着を待つ。これから登る山頂は、遙か上方に高く高く見えており、正面登山道を列をなして登っている登山者の姿が、蟻のように連なっている。時間は11時過ぎだが、腹はぺこぺこ。昼食は山頂までお預けと聞くと、意気消沈。あんな高い所まで登ることが出来るだろうかと、不安が通る。とにかく、水を飲んで、パンを食べて、急な登りに備えるだけ。 遅れて到着したのは奈良と名古屋の彼。前回の釈迦ヶ岳山行で痛めた腰が、トラバース道を歩いている間に、再び、悪くなったものらしい。これでは皆と一緒に登ることは無理と、リーダーと3人を残し、11時15分、先に出発することになる。進入禁止の草原を突っ切り正面登山道へ出ると、六合目避難小屋の下の地点。登山道には、何人もの人達が上を目指して登っている。この時間に、既に下ってくる人達にもすれ違う。若い女性は、山ガールスタイルの人が多く、山ボーイスタイルの若者もいたのにはビックリ。その上、小学生らしい人が下ってくるのに出合うと、途中でリタイアなんて出来るものかと、心にムチを打つ。ユックリと一歩一歩足を運び、上へ上へと登って行く。道脇には、ダイコンソウに似た黄色い花が、一面に咲いている。ヒメレンゲや、名も知れぬ小さな白い花も見た。八合目を過ぎると、斜面は益々急になり、デコボコした岩の出ている道になり、足を持ち上げるだけで大儀そのもの。下ってくる人に出合う度毎に、「こんにちは!」と声をかけ合うのすら、煩わしい。やっと九合目まで登り、勾配が緩くなると、辺りを見回す余裕が出てくる。道脇に咲いているイブキシモツケソウ、キバナハタザオ、ダンナイフウロなどの花も、目に飛び込んできた。別の黄色い花は、イブキカラシかも知れない。花を見て、息を整え登って行き、山頂へ着くなり、真っ先に売店へ飛び込み450円もする高いビールを購入。最近は自重して、山で一杯のアルコールは飲まないようにしているが、この日ばかりは、我慢出来なかった。それにしても、良く登ったものだと、自分に感心する。 日本武尊の立像の横に「伊吹山山頂」と書かれた看板を横目で見て、まずは、山頂台地の東端のコブにある三角点へ向かう。以前あった気象庁の測候所は壊されて無くなっていたが、三角点は、東の高みに立っていた。標高1377.3m、点名も「伊吹山」、一等三角点である。標石は、シッカリと南を向いていた。この三角点へは、4年振り6回目の再訪である。ただ、正面登山道から登ってきたのは、16年前の雪のある時期にスキーで。雪のない時期に登ったのは、記憶にない程昔の話だった。4年前、三角点は四つの保護石に囲まれ、三角の字の下まで土に隠れていたが、今見ると、保護石は、北東、南東の二つが残っているだけ。標柱も、土が削られ、點の字から20cm程下まで飛び出ていて、その変貌ぶりに驚く。何か、一等三角点の権威が失われたように思えてならなかった。 三角点に挨拶すると、南弥勒菩薩と表示された社の西に陣取り、昼食を始める。まず最初に、一気に飲んだビールの何と美味かったことか。気がつくと、登ってくる時に晴れていた空に、ガスが出て、下界の展望は閉ざされてしまっていた。ガスが出た分、寒さを感じるようになってきた。間もなくリーダーが登ってきて、奈良の彼がリタイヤし、名古屋の彼が付き添いで残り、八合目で待っているとの連絡がある。皆んなが食べている間、山頂の西で揚げている連凧に負けじと、甲賀の彼と大府の彼女が、凧揚げに興じていた。サブのコーヒーを飲むと昼食時間は終了。13時40分、下山にかかる。まずは、「伊吹山山頂」の看板の立っている日本武尊の立像の横を通って正面登山道へ。伊吹山山頂に、日本武尊の立像が立てられているのは、「第十二代景行天皇の皇子である日本武尊に、天皇が南国の熊襲征伐を命じ、帰る間もなく東征の旅を命じた。それを終え、ようやく尾張へ戻ったところで、伊吹山に荒ぶる神がいると聞いて、草薙剣を置いて征伐に向かったが、荒ぶる神に敗れて山を下りた。この時の戦いで病にかかり、一時は回復するも、伊勢へ入ると病は更に悪化し、亡くなってしまう。英雄として知られている日本武尊が、伊吹山の戦いで敗れ亡くなった伝説で、この立像が立てられているのだろう。 正面登山道を八合目まで下ると、二人が待っていた。名古屋の彼は、サブと一緒に下見に登っているので、山頂を踏まなかったことに悔いはなさそう。八合目から、登山道を離れて、斜面を横切り東へ向かう。樹木の殆どない草地の斜面である。中尾根まで来ると、その尾根を下って行く。岩ガラの尾根で腰程の高さの潅木が点在する尾根。何時しかガスは晴れ、展望は最高。正面登山道の三合目平地から、これから下る中尾根、上平寺尾根、弥高尾根が見下ろせ、上平寺越を通るドライブウエーや川戸山の連なりまでも見通すことが出来た。小藪を巻きながら、岩ガラの尾根を下って行き、樹林帯に入ると猛烈な笹竹の斜面。展望はなくなり、地形図に磁石を合わせて、尾根を外さぬように下るしかない。左の急斜面を下らぬように、右へ右へと下って行くと、笹を抜けて、比較的下り易い尾根の南下の林を下る。尾根が細くなったところで、もう一度細い尾根に乗り、笹数の濃い尾根の南斜面を尾根に沿って下って行くと、トラバース道との分岐に下りた。 ここで一息入れ、全員が下ったところで、来た道を戻る。三角点峰を越えて、弥高屋根の分岐まで来ると、先頭は、弥高尾根道を下って行く。シッカリ付いている道を、標高差150mも下ると、平坦な草広場の弥高寺本堂跡に出た。二段になっている広い草原の平坦地で、下の展望は言うことはなし。弥高寺の創建は、奈良、平安時代にまで遡ると言われており、明応四年(1495年)、京極政高がこの寺に軍を進め、翌年、京極高清が軍を布陣すると、城郭寺院としての役割を担った。その後、浅井氏滅亡した後、天正八年(1580年)、寺は西麓に移転し、寺院城郭としても、その機能を終えたと言う。 本堂跡からトラバース道を通って上平寺尾根の本丸跡上へ抜け、登ってきた道を下る。伊吹神社へ戻ったのは、16時45分。最後の二人が到着すると、ここで解散となった。 五合目で、山頂を見上げた時には、山頂まで登ることが出来るか、自信がなかったが、遅れた人がいてくれたので、登ることが出来たのかも知れなかった。 |
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