--鈴鹿を歩く354(新ハイ岩野氏例会)

ベンケイから御所平             平成230417(晴れ)

礒部記(地形図:土山、伊船)

コース 小倉6:158:00黒谷集落道広場8:25→8:30惣王神社→9:35635m →9:55ベンケイ10:05→10:25舟石→10:40小太郎谷源頭→11:10ミズナシ西ピーク→11:25ミズナシ北ピーク12:30→12:55ヨコネ→14:00田村川林道14:10→15:05黒谷集落無道広場15:2015:45瀧樹神社16:0016:50小倉

岩野さんの例会で、御所平を歩く例会は、これまで7回行われているが、主尾根から外れるベンケイを訪れたのは2回だけで、9年振りに訪れたことになる。

この例会でも岩野さんの姿は無く、後藤さんがリーダーを務め、黒滝集落道広場を825分に出発する。参加者は、4年振りに御所平を歩くこともあってか、39名と多かった。田村川沿いの道を歩き、川の対岸にある神社境内へ入る。計画では、太郎谷林道を東へ歩き、多良谷林道終点から右の尾根へ取り付いてベンケイへ直登することになっていたが、このルートは急だという理由で尾根ルートを登ることになったのである。尾根ルートの登り口は、この神社の裏にある。この神社は惣王神社と称し、祭神は國狭槌尊で、創祀年代は不詳であると聞くが、古くからこの集落の人々に信仰されてきた神社であると言う。山に取り付くにあたり、この神社本殿に参拝をして、この日の山行の安全を祈願した。尾根は最初から急勾配。辺りは杉の林で、左若い桧林と右杉林の境界に張られた金網に添って登って行く。登り初めの急登は流石に辛かったが、すぐに広い緩い尾根へ乗り、一息つけた。そこから左の尾根へ登ると、尾根の北側は伐採斜面。眼前に能登ヶ峰の尾根が迫っており、尾根のアチコチニはアセビの花が満開で、辺りに匂いを振りまいている。こんな光景を見るだけで疲れが癒されるのに、先頭は、風景も花も興味無しとばかりに、休むことなく登って行ってしまう。後ろを歩く数人だけが、その恵みに預かった。

伐採地から再び杉林へ入り、方向を東へ振ると、急登が始まる。後ろの人達が、風景に見とれている間に、前との間が空き、前を歩く人の姿は見えなくなっている。ひたすら登って行くと、急坂を登り切った平坦尾根で休んでいる皆んなに、やっと追いついた。尾根の南斜面は伐採斜面であったが、金網が張ってあり入ることが出来ず、南方の風景は見ることが出来ない。9年前に岩野さんの例会でベンケイから下ってきた時、金網の南側を歩いて展望を楽しんだことを、後になって思い出したが、もう遅い。

金網に沿って東へ向かうと、雑木林の尾根に変わる。637mを過ぎて下ると、細い尾根に乗る。地形図からでは読み取れないが、尾根の両側が落ち込んでいるような急峻な尾根だった。細尾根を渡り、再び杉林の急勾配の尾根を登り、方向を南へ振って更に登ると、955分、ベンケイ山頂へ到着した。山頂は東西に細長く、林に囲まれ展望は全く無い。三角点は広場の南側に立っていた。標高761.6mで、点名は「太郎谷」。三等三角点である。標石は北東向きで、北から40度東へ振っていた。ちょっと大きく見えたので測ってみると、標準より5mm大きい、15.5cm四方の角柱だった。

10分程休憩を取り、東へ一旦下り、桧林の尾根を登り返すと、安楽越えから来ている縦走路に合う。尾根の東に林は無く、展望が広がっている。眼下に鬼ヶ牙の岩塊や臼岩、杵岩が見えており、その間には、亀山市の街や高速道路を見下ろすことが出来た。左方には双耳峰の仙ヶ岳が林の上に頭を出し、その右肩に野登山の鉄塔が見えている。空気が澄んでいたなら、東方彼方に太平洋も望むことが出来るのだろうが、この日は霞んで見ることが出来ない。辺りの雑木の山斜面には茶色が残り、まだ春の息吹が訪れていない。

以前は、尾根は笹に覆われて位置が分からない程だった舟石も、今では笹は枯れ、縦走路のすぐ東側に姿を見せている。舟石は、長さ5m、幅1.5m程の大岩で、臼岩、杵岩と共に、古代稲作民の磐座信仰に結びついていた岩だと言われている。それを知っていれば恐れ多くて、この岩の上に靴で乗るなどとは、出来る筈が無いのだが〜。

展望を楽しんだ後、尾根を北へ下る。桧林の尾根西斜面を下ると、小太郎谷の源頭へ下りる。以前、美しい笹原であった斜面は笹が枯れ、見る影もない原に化していた。時間はまだ1040分。昼食には早過ぎ、一息入れただけで、杉斜面を西へ登る。この日は足が重く、いつの間にか最後を登っている。前の人達は左へ振ってグミの木平へ向かったのか、その姿は見えなくなっていた。こんなに遅れたのでは、グミの木平へ着いた時には皆んなが居ないと思い、斜面を直登すると、上にはピンクのアセビの花の写真を撮っている守山の彼と高槻の彼女がいるではないか。彼らもグミの木平へ行くのは止めて、斜面を直登したと言っていた。3人で斜面を登ると、ミズナシの南ピークへ登り着く。そこにはまだ誰も来ておらず、我々が一番。

ふと北の尾根を見ると、一人の人が尾根を北へ向かっている。我々のグループのひとだと              思い、「オ~!」と声を掛けると、こちらを振り返りはしたが、そのまま登って行きふと北の尾根を見ると、一人の人が尾根を北へ向かっている。我々のグループの人だと姿が見えなくなってしまった。「おかしいな?」と思い、単独の人と会ったかどうか、記憶を辿ると、どうやらあの人は、私が舟石から尾根を下っている時に、私の横を軽やかな足取りで追い抜いて行った女の人だと思い当たった。後で後藤さんに聞くと、何処から登ってきたのか分からないが、仙ヶ岳へ登ると言っていたとのこと。今は殆ど姿を見せないが、以前に鈴鹿の山を一人で歩き回っていた鈴鹿の彼女の姿を見たようにも思えた。

このピークで、グミの木平へ行った皆んなが登ってくるのを待つ。西方、北方、東方には林が無く、270度の展望が広がっている。西方遠くに水無山、綿向山があり、その続きに白い雪が残っている清水ノ頭、雨乞岳本峰、東雨乞岳、御在所山と連なり、その右にピラミダルな鎌ヶ岳、台形の水沢岳、宮指路岳と続き、これから歩く御所平の上には、双耳峰の仙ヶ岳が連なり、その右肩から野登山が顔を出している。西方のこれらの山々に囲まれたエリアには、高円やマイクロウエーブが遠くに見え、サクラグチから横谷山、能登ヶ峰へ半円状に尾根が鋸の歯のように連なっていた。6月例会では、この尾根を歩くと思うと、本当に歩くことが出来るだろうかと、「ゾ〜」と背筋が寒くなってきた。

ふと足元を見ると、「主図根点」と彫られた標石が立っていた。図根点とは、地形図作成のために三角点による三角測量をした後、細部の測量をするために設置された標石で、通常は、作業終了後に除去されたとされているが、残っているものも数多くある。その標石の存在位置は、地形図には記されていないが、こんな所に立っていた。

グミの木平へ行った人達が登ってくると、休むことなく北へ尾根を下る。登り返したピークが・832mのミズナシ。以前は、尾根は笹に覆われていたが、今では笹はなくなり、アチラコチラにコバイケイソウが若芽を出していた。ミズナシのピークを越えて、次のピークの北斜面で、昼食となった。広場の廻りにはアセビの木が群生し、白い花を一杯に付けている。空には雲一つ無く、絶好の山日和だと言えた。

1230分出発となる。斜面を下り、尾根を北東に向かう。以前には、膝程あった笹原は、歩き易い尾根へと変わっている。御所平とは、小太郎谷の源頭であるミズナシから、北の外れのヨコネまでの高原状の尾根を呼ぶ名称である。この山域は、近江側は急斜面だが、伊勢側は比較的緩斜面で、アセビやシロモジの林が点在し、昔は笹や茅が密生する尾根であった。戦国時代には、伊勢の北畠信貴が織田信長軍に攻められ、従士23名と共にこの地に逃げ込み、潜居したとの伝承がある場所である。緩く広い尾根を下り、最後にガレ場の横を20mも登ると平坦なピーク。その最北のピークが、ヨコネであった。計画では、ここから東の鞍部へ下り、割谷を下ることになっていたが、これまで岩野さんの例会では割谷を下ったことは無く、通例通り、ヨコネから直接尾根を下ることに決まった。

この尾根を、岩野さんの例会で7年前に下っているが、シッカリとルートを記憶している訳ではない。下る尾根は、ハッキリした尾根ではなく斜面に近い尾根で、斜めに下った記憶があったので、下る前に地形図に磁石を合わせて、下る方向を決めた。

リーダーは、ミズナシの北西端から尾根を下り始める。後に続くと、下り出して50m程の所から、真北へ尾根ではない急斜面を下っているではないか。どう見ても下る方向が右ヘズレており、間違いだと思って立ち止まり、何度もこの尾根を下っている山田さんに確認をすると、矢張り左へ下らなければならないとの同意見。「こっちの尾根だぞ!」と下っている人に声を掛け、ここからは山田さんがトップに立ち、皆んなを引き連れ、西北へ尾根を下った。最後を歩いていた一芝さんが、「引き返せ!」と叫んで、何人かは登り返してきたが、後藤さんに続いた数人は、そのまま下った様子だった。一芝さんと、「彼が居るなら大丈夫」と話し、先に下った人達の後を追って西北の尾根を下った。

標高約700mまで下ると平坦な尾根へ下り、ここで先に下った人達が待っていた。最後に下りると、右の斜面の下から「オ~!」と叫ぶ声が聞こえてくる。後藤さんを先頭に谷へ下ったと思っていた人達が、斜面をトラバースして、すぐ下まで来ていた。その姿を確認すると、山田さんは下り始めたが、我々数人は、その下の平坦地で皆んなが揃うまで待つ。遅れていた全員が揃った所で、出発しようとすると、前を歩く人の姿は何処にも見えない。とにかく、私が先頭になり尾根を下ると、薄暗い杉林に入る。尾根の傾斜は緩くなったが、広い尾根に変り、一瞬、どっちの方向へ下ったら良いのか分からなくなる程だった。ここで地形図を確認し、方向を定めて金網に沿って尾根を下ると、急傾斜の尾根に変る。その尾根を下り、尾根先端近くまで来ると、下に田村川林道が見えていた。ここで、尾根の先端が崖になっていたことを思い出し、右へ廻り込んで谷へ下ろうとすると、先に下った人達が、谷を下っているのを見た。後から下った我々10名程の人達は、相当れていると思っていたが、こんな所で追いつくとは思ってもいなかった。皆んなと一緒になり、谷出口の段差、急斜面を苦労して下って、林道へ出たのは、14時だった。下りで波乱があったが、無事だったのは、山行前に惣王神社へ祈願したお陰なのかもしれない。ここからは、林道の傍ら咲くミツバツツジ、キブシや、ニオイタチツボスミレ、ミヤマハコベミヤマカタバミの花を見ながら、1時間も田村川林道を歩いて道広場へ戻り、1515分解散となる。

京阪神組の多くは、甲賀の彼、能登川の御夫妻の案内で、土山にある古い由緒ある瀧樹神社へ寄り、キクザキイチリンソウの群落を見て、家路についた。