--鈴鹿を歩く338(新ハイ岩野氏例会) 花の鏡山 平成22年08月22日(晴れ) 礒部記(地形図野洲) |
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コース 京都駅8:16⇒7:45野洲駅7:55⇒8:30希望ヶ丘団地入口広場9:00→9:35鳴滝池東屋9:45→10:25登山道10:50→11:05竜王山山頂11:10→11:15鏡山三角点11:20→11:45奥鳴谷広場12:50→13:20・274m→13:40モトクロス山→14:00岩場14:10→14:45希望ヶ丘団地入口広場16:30⇒17:00野洲駅⇒17:25京都駅 |
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「鏡山」は、天日槍(アメノヒボコ)が新羅から持って帰った八つの宝物のうちの鏡を、山中に埋めたと伝えられたことから名付けられた山名である。この山の中には、推古天皇の御世に、聖徳太子により建立された箱石山雲冠寺や牟禮山法満寺の遺構や、多くの古墳が点在することでも知られている山でもある。こんな湖東の里山に、サギソウの群生地があることは、あまり人には知られていない。平成15年以来、守山の彼の呼びかけで、毎年のように8月下旬に、サギソウを見にこの山を訪れていたが、岩野さんの例会で、通常沢の例会ばかりある8月に、花を見に鏡山を訪れるのは初めてのことだった。 宇治の彼と共に野洲駅へ7時45分の到着。駅には久し振りに顔を見た大阪の彼女が来ていた。3人は、すぐにやって来た守山の彼の車に乗せて頂き、希望ヶ丘団地入口広場へ向かう。その車中で、吹田のサブが9月から岩野さんの例会サブを離れ、静養に専念すると聞きビックリ。いずれ手術をするとは聞いていたが、こんなに早い時期とは思ってもいなかった。この日、自分の車を運転しての参加だったら飲むことが出来ないが、守山の彼の車に乗せて頂くことが出来たので、発砲ワインやビールを持ってきた。暫くの間、吹田のサブが任を離れる慰労の会になることを、感じていたのかも知れなかった。 希望ヶ丘団地入口広場へ到着すると、ウダルような暑さの中の里山歩きなのに、21名もの参加があった。数名の岩野氏例会常連の姿が見えなかったが、この時期、毎年サギソウを見に来ていた人達の殆どは顔を出している。参加者全員が揃うと、9時に出発となる。東屋から、一面に花を付けているイボクサの花を踏んで西へ歩き、広場の外れから3m幅程の道へ入る。道が尾根を左へ巻くと、細い道に変わる。この道は、鏡山に付けられた遊歩道の一つで、このまま進むと鳴谷池を通って鏡山へ向かう散策路になっている。左の斜面にキキョウの花を見て、道が谷を横切ると、谷床には、ここに一つ、あちらに三つとサギソウが姿を見せてくれた。その花は例年に比べて少なく、花も小さいように思えた。谷が道の東に離れると、道脇にはサワオトギリの小さな黄色い花が点々と咲いている。道には円形の踏み石が、庭石のように置かれていた。再び湿地に入り、道が木道になると木道の両側はサギソウの群生地。ここのサギソウも小さく数も少なかったが、辺りのアチコチに、黄色の可愛らしいミミカキグサの花も咲いていた。 ここで写真タイムの休憩を取り出発。100mも歩くと立ち木を隔てた東側の湿地が、最後のサギソウの群生地。その踏跡の入口の立ち木に、滋賀県が北限とも言われるヒカゲノカズラ科のヒモズルを初めて見た。この植物は、環境省で絶滅危惧1B類に指定している貴重な植物だという。ここから緩く坂を登ると堀かけのトンネルのある峠。そこを下ると鳴谷池へ出た。この池の東屋で休憩をとる。池の水は、例年より遥かに少ない。 ここで集合写真を撮った後、9時40分に出発する。20mも西へ歩くと、道の左手に「薬師の経塚」と書かれた説明版が立っていた。経塚とは、この山麓に598年に聖徳太子により建立された雲冠寺と法満寺の二寺があったが、両寺の間で争いが絶えず、寺を焼いたり焼かれたりで、その焼け残りの経文の灰をここに埋めたことから経塚と呼ぶようになった場所である。鏡山東山麓にある雲冠寺は、織田信長の兵火にあい焼かれ、1572年廃寺となってしまったが、今では寺跡に石仏、石垣、古井戸跡が残っているだけである。通常、鏡山へ登るには、この道を真っ直ぐに北東へ登れば雲冠寺跡を経て鏡山山頂へ行き着くが、この日は、守山の彼が先頭に、説明版の前から一般道を離れ、北の尾根へ取り付いた。急な細尾根の踏跡を登ると、すぐに東西に延びる尾根へ乗り、西へ向かう。尾根の両側は林で、視界は全く無く、風も通らない。ツクツクボウシやアブラゼミの鳴き声が音高く聞こえ、暑さが強調されているようにも思える。あまりの暑さに、尾根途中で一旦小休止をして、幾つかの小さなコブを越えて急な細尾根を登ると、磨崖佛へ下る尾根の分岐へ出て、その上10m程の所で一般登山道と合う。何人かの人が磨崖佛を見に行ってる間、ここで休憩となったが、全員が揃っても出発の号令が掛からない。聞くと、リーダーが熱中症気味で動けず、尾根の途中でダウンしているとのこと。サブが状況を見に行き、これからの行動の指示を得て、やっと列は出発となった。急坂の途中で25分も休まされたのでは、そこからの階段の登りが、足に応えてならなかった。15分も登ると竜王山山頂。この山は「鏡山」なのに、「竜王山」の表記があるのは、このピークの北下に雨乞いのために祈願した竜王宮があることから、このピークが「竜王山」と呼ばれているようだ。 山名標識のすぐ側には、一辺が18.5cm角、高さ29cmの石柱が立っていた。石柱の頭の対角線上に、×印が彫られている。この標石の発見時の記録によると、石柱の南面には「明治十二年十二月建設」、東面には「三」の字が、西面には何も書いてなく、北面には「高木〇平」「林○○」と彫られていたと言うが、今ではハッキリ読み取ることが出来ない。この石柱は、近くの雪野山にある標石と共に、明治10年に三角測量のために設置された標石で、滋賀県図書館に保存されている「滋賀県管内實測圖」「近江國實測圖」の枠外に、「高木秀平」の名前があり、標石の刻字と一致することから、測量基点標石と認知されたが、何の目的で使用されたかは分かっていない。以前、この標石を内務省が設置した原三角点と説明したことがあったが間違いで、国土地理院では、原三角点とは認めていない。このピークから西へ100mも歩くと鏡山三角点のあるピーク。一寸した広場に三角点が立っている。標高384.6mで、点名も「鏡山」、二等三角点である。西へ一段下った所にある大岩の上に立つと、三上山が手の届きそうな所に見えていた。 計画では、このピークから城山への尾根を下って、途中から奥鳴谷広場へ向かうことになっていたが、こう暑くては体もフラフラ。距離を短縮して、竜王山の方へ戻った小ピークから尾根を下ることにコース変更。下る地点はもう一つ不確かだが、斜面を下り始めると、シッカリした踏跡が続いている。6年前に、初めてこの斜面を登った時には、人が歩いた跡は殆ど無い斜面だったが、今では迷いそうもない踏跡が出来ている。下ってすぐ左の尾根へ乗って下り、送電線鉄塔を見ると、送電線に添って東へ。尾根分岐まで来たら、巡視路を離れて右の尾根を下ると、やがて奥鳴谷広場へ下りた。谷川が流れている平坦地で、広場と呼べる場所では無かった。この場所で昼食となった。 陽が照り、木陰に入るが風は無く、何処に座っても暑いことには変わりはない。サブは飲まなかったが、真っ先に持ってきた発砲ワインの栓を抜き、皆んなのコップに一口づつ注いで、心の中で一人乾杯し、これまでの吹田のサブの任に感謝する。本人から、正式に話があれば、皆んなと一緒に大声で乾杯出来たものが、本人からの説明がなかったので、勝手に言うわけにもいかず、心の中で感謝するしかなかったのだった。 12時50分に午後の行動開始。谷沿いの踏跡を東へ下り、鳴谷池へ向かう道分岐から南へ方向を変える。谷を離れて斜面を登ると、すぐに尾根へ乗り、尾根を東へ進んだ。尾根の両側は相変わらず林に視界を遮られ、展望は全く望めない。地形図を見ても、等高線が細かく入り組み、余程シッカリ歩いた軌跡を辿らないと、何処をどう歩いたか分からなくなる程だった。水準点のある小ピークを越え、•274mを踏むと、踏跡は南に方向を変え、林が切れると、モトクロス山と呼ばれるようになった禿山の上に出た。このあたり一帯に林は無く、禿げた崖状の地肌には車輪の跡が付いている。以前はそれ程でも無かったが、モトクロスバイクの愛好家達の隠れた遊び場所になってしまい、より地肌も荒らされているようだった。山を下り湿地帯状の谷を歩くと、以前あったサギソウは数える程の数に減ってしまい、それに反して、ノギランだけが、その数を誇っているようにも思えた。 岩場の谷で涼をとり、希望ヶ丘団地広場へ向かう。計画では希望ヶ丘東ゲートへ下ることになっていたが、ここでもコース変更。ここから広場へ帰るには、送電線巡視路を辿って鳴谷池へ出る上道と、一旦平地まで出て、鳴谷渓谷を登り鳴谷池へ出る下道があるが、サブと案内人とで相談し、下道を通って鳴谷池へ出ることになる。瀧不動明王の鳥居の側を通って平地に出ると、突然サブが、八重谷池を埋め立てて造られたアウトレットストアの方向に進路変更。「アウトレットの側を通った方が近い」と言うのが、その理由。 アウトレット駐車場は休日のこともあり、満車で人も一杯。彼方にある竜王インター南の駐車場も満車のように見えた。8月初めの平日に、家族と一緒に覗きに来たことがあったが、平日でも人で一杯。その上我々高年の男性には、見たい店も殆ど無い。「もう二度と来るものか」と思った程だが、若い人には魅力ある店のある場所らしい。鈴鹿の兄は、奥さんに見せると言って、盛んに人ごみの様子を写真に撮っていた。 アウトレットの側を通り、希望ヶ丘団地広場へ戻ったのは、14時45分。岩野さんが元気を回復して待ってくれていた。ここで解散となったが、その後、有志による反省会で時を過ごす。最後に残った守山の彼の車は、中々、出発することなく、車の中で待っている間に眠ってしまい、広場を出発したのは、16時30分であった。 今年は例年になく暑さが厳しく、久しく山を歩いていなかったので、暑い時の歩きは体に応えたが、今年も鏡山のサギソウを見ることが出来て、大満足の一日だった。 |
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