鈴鹿を歩く331(新ハイ岩野氏例会)-- 横根連峰 平成22年04月18日(晴れ) 礒部記(地形図:高宮、篠立) |
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コース 小倉6:00⇒7:50寺院広場8:15⇒8:35五僧峠下広場8:40→8:50ツツロ坂9:00→10:10横根最高点10:25→11:20西尾根11:25→11:55横根(昼食) 12:50→14:15五僧峠14:30→14:50五僧峠下広場15:00⇒17:10小倉 |
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岩野さんの例会で、五僧峠から登って横根連峰を踏んでツツロ坂まで歩いたのは、平成12年の9月。それ以降、この尾根を歩く例会は持たれていない。今回、横根連峰を歩くのは前回の逆ルートで、2回目となる。私は、平成12年7月にツツロ坂から五僧峠へと歩いているので、西横根の三角点を訪ねるのは3回目であった。ただ、歩いたのが10年前と言うこともあり、忘れていたことが多く、その場に行って思い出すことが殆どだった。その時の山行で印象的だったのは、五僧峠の南尾根の明治政府内務省地理寮が設置した漂石。当時はこれ一つしか知られていなかったが、その後、峠の北尾根に相棒の漂石が見つかったと、たろ坊さんから連絡があり、この山行でその漂石を見るのが楽しみであった。 岩野さんの例会は参加者の集合が早い。最後に大兄が到着すると、集合時間前の8時15分に出発となる。全員車で権現谷林道を奥へと走り、五僧峠から来る林道分岐の道広場に駐車する。ここで参加者の点呼をとり、7台の車に分乗してツツロ坂へ移動した。ツツロ坂は、大君ヶ畑の黒谷から権現谷源流のツツロ谷へ越える古い道峠であるが、現在では、黒谷に古い道が残っているが、ツツロ谷側の道は消えて無く、黒谷入口と権現谷は林道で結ばれている。この日の参加者は28名で、久し振りに稲沢の彼女にお会いしたが、常連の吹田の彼女、鈴鹿のお兄い、守山、大津の彼の顔は無かった。 峠から北の尾根へ取り付く。初めは杉林の尾根だったが、急斜面を登り尾根へ乗ると雑木林の尾根へ変わる。木々にはまだ新芽は出ておらず、冬枯れ状の林。その林の中のアチコチに白い花をつけたタムシバや、鮮やかなピンクのコバノミツバツツジの花を見る。ここから尾根を東へ進むと、何本もの石楠花が群生していたが、まだ蕾は固く、花が見頃になるのは連休頃になりそうだ。次のピークが・657m。古い地形図にはこの標高点が記されていないピークである。先頭は何の疑いも持たずに北へ延びる尾根へ踏み込んで行くが、進む方向は東。後ろに居た私がここから先頭になり、東へ延びる尾根を下って行く。 低いピークを越えて、尾根の方向が北へ振ると、前方には山肌にゴツゴツした岩が出ている横根最高点が立ちはだかっている。斜面は急で、遠くで見た以上に竣険な様相を呈していた。近付くにつれ尾根は細くなって傾斜はキツクなり、岩を乗り越えての登り。最後に小枝に掴まりながら岩斜面を這い上がると、やっと東西の尾根へ登り着いた。後続はかなり遅れているようなので、ここにザックを置いて50m程西にある横根最高点へ挨拶にかう。最高点の山頂は狭かったが展望は開けていて、西にザラノ、鍋尻山が、北には霊仙山、谷山の姿が、間近に見えていた。4月というのに緑が無く、寒々とした光景だった。10時25分、高所恐怖症のあの方を先頭に、ピークから東へ下る。急尾根を木に掴まりながら下ると大岩の上に出た。先頭の彼は「道が無い!」と言って騒いでいる。岩の先は切り立っていて下りることが出来ず、右か左を下るしかない。よく見ると、南側の斜面は掴む木もなく斜面も急で、しかも倒木が塞ぎ下れそうもない。そこで、北の斜面を岩を巻いて東の尾根へ乗った。一息ついてから、10年前には岩の南側の急斜面を下りたことを思い出したが、よくあんな斜面を下ったと、我ながら無茶ぶりに驚ろかざるを得なかった。尾根を東へ向かう。西横根までは、地形図で見ると600m程の距離で、間近にピークが見えている。その間にはピークが三つあるが、岩の痩せ尾根があったり、露岩を乗り越えたり巻いたりの歩きで、簡単に歩かしてはもらえない。先頭を歩く彼は、「恐い!」「道が無い!」「どう行けば良いんだ!」を連発。後ろからは、「高所恐怖症のあなたが行ける所なら、誰でも歩ける」と冷やかされっ放し。そう言っているわりには順調に歩き、気がついたら6人程が先行して後続との間が空き、三角点峰手前のピークで後続を待った。ここで小休止して、全員が揃ってから出発する。細尾根を通って登り返すと西横根のビーク。三角点は細長いピークの東に寄った所に立っていた。標高759.9mで、点名は「西横根」。漂石は北向きで、北から西へ20度振っていた。角柱の大きさも通常以上の大きさで、16cm×15.7cmもあった。時間は11時25分だったが、昼食の号令はまだかからない。尾根を東へ下る。尾根の左手には、趣ある雑木の疎林が広がっていた。尾根の右手は、10年前と同じ様に伐採斜面がそのまま残っていて、大展望が開けていた。東正面には烏帽子岳が間近に見え、その尾根続きに双耳峰の三国岳がある。その右手には屋根型をした御池岳がドッシリと構えていた。6月の例会では、「あの尾根の向こうの尾根を三国岳へと登るのだなあ」と思いながら、尾根急斜面を下る。鞍部からユズリハを掻き分けて疎林の尾根を登り返すと、北斜面にブナの疎林を残す横根山頂。陽は出ていたが風は冷たくピークの東外れの疎林の緑で昼食となった。時間は丁度12時。汗も適度に出して、何時もなら「グ~」といきたい所だったが、今回も車運転での参加。「飲んで」と差し出された缶酎ハイを心ならずも断り、食に徹するつらさ。側で飲んでいるあの人が羨ましい。12時50分に出発になる。リーダーは、出発前には「時間が余るのでダイラまで行こう」と言っていたが、ここまで来るのに思った以上に時間がかかり、ダイラへ行くのは中止して、五僧峠へ下ることに決定。甚目寺町の彼を先頭に、斜面を北東へ下る。五僧峠から横根へ登る時には間違うことはないが、横根から五僧峠へ下る時には間違い易い所が二ヶ所あり、ここがその一つ。方向を違えると、目的の県境尾根へ乗ることが出来ない。尾根に沿って下ったが、注意して下ったつもりでも、その尾根は一つ西の尾根で、途中から斜面右斜めに下って、東の尾根へ乗らなくてはならなかった。そう言えば、10年前個人山行で来た時にも、かなり下まで下ってしまって気がつき、登り返した記憶が蘇ってきた。目的の尾根へ乗り、北へ向かう。尾根の西斜面は、まだ新芽の出ていないミズナラやシロモジの疎林で、趣ある林が広がっている。平坦なピークを越えて770mに来ると、尾根の方向が西へ向く。林の間から右下に、五僧峠へ向かう新しく出来た舗装路が、蛇のように畝っている。それを見ながら歩いて行くと、尾根の突端。ここで一息入れて、標高差20mも下って登り返したピークから下る尾根の方向は、北向きに変わった。 広い尾根斜面を真北へ下る。五僧峠へ下るには、左手の・618mへ向かうシッカリした尾根へ乗りたくなるが、三つある分岐尾根の真ん中の尾根とも見えぬ急斜面を下らなくてはならない。ここが間違い易い二つ目の地点。前回と同じように、この地点で下る方向を迷ったが、五僧峠へ下る尾根はこれで間違いないと甚目寺の彼と確認し合い、地形図に磁石を合わせて真っ直ぐ斜面を下ると、見覚えのある小尾根の鞍部へ下りた。甚目寺町の彼と私の後に続いて下ってきたのは、4人程の人だけ。一方、後ろを歩いていた一団は、尾根分岐の地点で下る方向の確信が無かったらしく、中々下りてこない。しばらく後続が来るのを待ったが、ここから五僧峠へは一本道。6人は五僧峠で待つことにして出発した。小尾根にある二つのコブを越えて下りにかかると、尾根の途中に、高さ71cm、奥行き19cm幅31cmの自然石に「測点地理寮」と彫られた例の漂石が立っていた。漂石の裏面には、「射近江美濃國界字立分峠東南之基點三百九度四十六分此距離十二間一尺六寸明治九年四月」と彫られている。この漂石の写真を撮ると、すぐに五僧峠へ下った。 五僧峠は美濃の時山から近江の多賀へ越える古い峠道、五僧越の一峠である。美濃時山から五僧峠へ至り、権現谷から地蔵峠、杉坂峠と踏んで多賀へ越えた道で、関ヶ原の合戦で、敗れた島津義弘の軍が退路にしたことから、島津越とも呼ばれている。この峠の名称は、五人の僧がこの峠の庵にこもって修業したからとも、彦根藩の関所があって、五人の僧が駐在していたからとも言われている。現在では、五僧の部落は廃村となり、数年前まであった古道は消えかかり、立派な舗装路の車道が出来て峠を乗り越していた。 先程見た漂石の相棒の漂石が、峠の北の尾根にもあると、たろ坊さんから聞いていたので、皆が下ってくる前に見に行こうと、甚目寺町の彼と稲沢の彼女の三人で尾根を探しに登った。何処にあるかは聞いていなかったが、尾根の杉林の中を探すと、送電線鉄塔と同じ位の標高の、枯れかけた松の木の根本に漂石を見つけた。地表に出ている高さ55cm、奥行き16cm幅31cmの自然石に、先程見た漂石と同じく「測點地理寮」と彫られている。裏面には、「射近江美濃國界字立分峠西北之基點八十三度六分此距離十間明治九年四月」と記されてあった。皆を待たせてはいけないので、写真を撮るとすぐに峠へ下る。五僧峠で休んだ後、左下に旧峠道跡を見ながら、新しく出来た車道を下って権現谷林道分岐へ戻り、15時に解散となった。帰りは、大君ケ畑経由で家路についた。 峠の南尾根にある漂石の存在については、それまで鈴鹿を歩いていた人達の間では、古くから知られていたが、何の漂石かを知る人はいなかった。平成12年7月に、私が個人山行でこの漂石に出合い、鈴鹿に詳しい友人方に問い合わせたが、いずれも「分からない」の返事だったので、国土地理院近畿測量部へ問い合わせをすると、この漂石は、国土地理院でも存在を知らなかった、明治政府内務省地理寮が設置した貴重な漂石だと分かった。この時、地理寮設置の漂石の公式な発見が、国土地理院の広報や地図の会の会報に、私が発見者のように報じられたので、戸惑ったことがあったことは、記憶に新しい。 この漂石の設置については、内務省が発行した内務省第一回年報地理寮、土木寮によれば、量地の功程の項に、「本寮施行の測量に全國臨時の二種アリ・・・滋賀岐阜両縣下京都大阪府下二於テ國郡村の境界測図・・・施業スルモノハ共ニ臨時測量ニ属ス・・・」とあり、地理寮が測量を実施した事実は記録に残っていたが、何処の場所に、どんな理由で測量が行われたのかは記録されていなかったし、その漂石の存在すら知らなかった。 私が知らせて正式に国土地理院で調査した後、平成18年に峠の北尾根にも同様な自然石の地理寮設置の漂石が発見され、名前は忘れたが、滋賀県の方がこの漂石について調べた結果、その公文書が滋賀県民情報室に残っていたことが分かった。それによると、明治八年、滋賀県の五僧村と岐阜県の時山村で境界線を巡って争いがあり、それを調整するために両県の代表が立ち合い、境界線を調査する作業を行った。その結果、その境界が定められ、仮漂石を立てたが、翌九年になって、当時の地理寮が正確な測量のもとに、この測點漂石を設置したと記されているという。その方は、字立分峠を峠の名前としているが、むしろ、字の意味は分からないが、「近江美濃國界の方向を指して、峠東南の基點を〜間に分けて立てる」と読むのでは~。従って、もう一つの基点があったのではないか? ここで、明治政府が出来てから測量業務を司る官省は、民部省戸籍地図掛、民部省地図司、大蔵省租税寮地図課と変遷し、内務省地理寮に引き継がれたが、地理寮は、明治7年1月から明治10年までの3年間存在した政府の官省である。その後、地理局と改称され、それと平行して設けられた兵部省参謀本部陸地測量部が地形図作成の業務に当たったとは言え、地理寮は、現在の国土地理院の全身と言ってもよい官庁であると言える。 |
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