鈴鹿を歩く330(新ハイ岩野氏例会)

花の霊仙山西南尾根                                                     平成220404(晴れ)

礒部(地形図彦根東部、霊仙山、嵩宮)

コース 小倉6:307:50寺院広場8:108:15今畑登山口8:509:00今畑→9:50笹峠→10:05西南尾根下10:1511:10近江展望台11:1511:40南霊山北尾根(昼食)12:40 13:20霊山山最高点13:3013:40岩ノ峰→14:25白谷林道→15:15重谷→15:40行者谷・重谷分岐→16:15奥の権現16:3517:10寺院広場17:30

岩野さんの例会で初めて霊仙山西南尾根を登る例会が企画されたのは、平成84月。この時の例会は雨で中止となってしまったが、平成94月の例会からは、恒例の花見山行として毎年実施されてきた。一方、私が初めて霊仙山西南尾根を登ったのは、平成124月に岩野さんの例会へ参加した時であった。それ以来、毎年この尾根を登りフクジュソウを見に訪れているが、驚くことに、岩野さんの例会へ参加して西南尾根を登ったのは、過去10年の間に4回しかなく、他の年は個人山行で登っている。今回のコースでは、岩野さんの例会で5年振りに岩ノ峰から下るが、私が下るのは8年振りのことであった。セットした筈の目覚ましのベルが鳴らずに、起きたのは6時。何時もなら経費節減で地道を走って信楽周りで行くが、この日ばかりは名神へ乗る。八日市インターを下りると、岩野さんがサブの車を待っていた。挨拶をして一時を過ごすが、この時に、思い掛けなく岩野さんが採ってきた初物のコゴミを頂いた。コゴミは、例年なら4月下旬にお目見えするが、日野川の川原では美山より成育が早いよう。今晩の初食が楽しみだった。

寺院広場には8時前に到着する。参加者が到着するのを待つ間にも、何台もの車が道奥へと通り過ぎて行く。受付を済まし、駐車場の確保に早めに広場を出発するが、今畑登山口付近の駐車広場には車が溢れ返っている。私が最初にこの尾根を登った当時は、この尾根を登る人がいても数える程だったのに、この尾根を登るルートをインターネットや案内書で紹介されると、こんなに多くの人が訪れるようになってしまった。当時、こんな状況になるとは、誰が想像できただろうか。後続が来るのを待つ間にも、続々車がやって来ている。その中には、長野ナンバーや静岡ナンバーの車が来たのにはビックリ。

この日の参加者は28名で、久し振りに四日市の彼や鈴鹿のお嬢の顔を見たが、吹田の彼女の顔は無い。全員が揃って出発出来たのは850分。今畑登山口から一般道を登って行く。何時もなら、ジグザグに登る道脇にミヤマカタバミやネコノメソウを見るが、この日は花のかけらも見ることが出来ない。10分も登ると今畑部落跡。過去には笹峠を経て権現谷奥へ山仕事をする足がかり的な村で、10戸程で生活していたが、昭和60年頃には住んでいるのは1戸だけになり、平成の初めに廃村となった村である。今では石垣が組まれた屋敷跡に、「白雲山宗金寺(浄土真宗本願寺派)」と書かれた寺だけが、家屋の形を止めて残っていた。辺りには、庭木を思わす何本もの梅が満開であった。

例年、今畑屋敷跡にフクジュソウが花を開いているが、今年は花は終わっていた。屋敷跡を過ぎ、深くえぐれた道を登って尾根に乗り、勾配が緩くなると杉の林。右手へ廻り込むとトリカブトやヤマシャクの若芽を見る。左手へ向かい、杉林を抜けて尾根の北斜面へ出ると、目の前には、これから登る霊仙山西南尾根が聳えていた。春霞みでハッキリは見えていなかったが、見上げるようなその姿は、圧巻としか言いようがない。その尾根に、「点々と登っている人が見える」と言ったのは遠視の気が出てきた人達で、私にはその姿を見ることが出来なかった。空はドンヨリと曇っていて、吹く風が冷たく寒い程。

北斜面に切られたヌカルンダ道を登って行き、勾配が緩くなると現在の笹峠。ここから古い登山道は東へ一旦乗り越すが、道を離れて尾根上を北西へ向かうと昔の笹峠。以前は笹に覆われていた尾根にも、この2~3年の間に踏跡が出来ている。未だ冬枯れ状の木立の間を縫って、庭園を思わす苔むした岩塊を廻り込んで登って行くと、やがて西南尾根下の広場に着く。そこにはオニシバリが、淡緑色の可愛らしい花を付けていた。

ここから急登が始まる。枯れた笹藪跡を過ぎると、その上は灌木の無い岩肌の尾根。時折見るのは、低いメギの木だけ。その中に踏跡が、上へ上へと延びている。傾斜は急過きる程急で、一歩一歩体を持ち上げる様に登って行くしかない。しばらく登って後を振り返ると、転げ落ちそうな急斜面で、人の列が長く連なっている。時折休んで後ろの風景を眺めると、登るに従い鍋尻山の全容が見えてきた。御池岳や藤原岳はモヤに霞んでハッキリ見えない。空は晴れていたが、帽子が飛ばされそうになる程風が強く吹き、肌寒くさえ感じられる程。25分も登ると「スハマソウの園」。今年の3月は天候不順で寒さがぶり返し、スハマソウの蕾は多かったが、花はアチコチにポツリポツリあるだけ。写真を撮り終えると寒くてたまらず、雨具の上を着て寒さを凌ぐ。

そこから強い風に吹かれながら、20分程登ると近江展望台。その名の通り、東近江地域を一望出来ることから、名付けられた山名なのだろう。岩の上に立つと、左手に鹿遊びの尾根からソノドが、手前にはコザトからリョウシへと尾根が続いている。その奥には烏帽子岳と、二つコブの三国岳が黒く見えていたが、その右にある藤原岳と御池岳はモヤに隠れてハッキリ見えない。南すぐ近くに鍋尻山のピークがあり、高室山も見えている。その右手の尖った山は阿弥陀ヶ峰か。更に西の下方には、高取山、比婆之山、山腹が杉林の男鬼山、紅白の鉄塔の立っている向山、八葉山と、男鬼の山々が連なっていた。幾分強くなってきた風に吹かれながら、しばし辺りの光景に目を奪われる。前方を見ると、南霊岳から頭を雲に覆われた最高点へと緩い尾根が続き、その左手に三角点峰が見えていた。この辺りはカレンフェルトの尾根で、ゴツゴツした岩ガラの尾根になっている。

北へ向け尾根を歩く。昨年は、足元の岩の間に多くのフクジュソウの花を見たが、今年は更に数が少なくなっているように思えてならない。斜面を突っ切り、南霊岳の北鞍部まで来ると、尾根西斜面にはフクジュソウがアチコチに花を開いていた。その花の状況は、蕾や開きかけた花が多かった。南霊岳東斜面のフクジュソウは、花が少ない上に終わりがけだったが、この西斜面のフクジュソウは、数日後が見頃になるのだろう。毎年、ここへ来てフクジュソウの写真を何枚も撮っているので、今年は写真を撮るのは止めようと思ってやって来たが、この可憐な花を見ると、写真を撮らずにはいられなくなる。写真を撮りながら北へ移動し、雪の残った池の近くの西斜面で、花を見ながらの昼食となった。

高槻の彼女から握り飯を頂き、お兄いのうどんをパクッて腹を満たし一息つくと、お嬢の独演会が始まる。相変わらず彼女一人がいると笑いが止まらない。その後時間を設け、西の尾根付近の花を見に行くが、数年前には花園だったのに、花はほとんど消えていた。思わぬ変化に驚いた後、1240分に出発となった。例年だと、大洞谷源頭を通って三角点峰へ向かうが、今回はいつも以上に時間が遅かったので、三角点峰へは寄らずに、直接最高点へ向かうことになった。尾根は岩ガラで歩きにくい上に、風が強く冷たかったので、西南尾根の西下を歩いて風を避け、鞍部から尾根に乗ると、40分程で最高点へ着いた。

山頂からは360度の大パノラマが展開していた。春霞でハッキリとは見えていなかったが、北には雪が残った伊吹山が聳え立ち、すぐ下には経塚山と避難小屋のあるピークが見下ろせた。東には鹿遊びからソノドへ尾根が延び、その右手に烏帽子岳から三国岳への尾根が横たわり、その奥に、藤原岳、御池岳、鈴ヶ岳が影のように黒く見えている。その右肩には、三角形をした天狗堂がチョコンと頭を覗かせていた。手前には、次回に登る横根連峰が横たわり、今歩いてきた南霊山、近江展望台があんなに~と思う程遠くに見えている。西には山腹に雪を残している三角点峰が、手の届きそうな所にあった。

ところで霊仙山の開山は役ノ小角と言われ、中国仏教の聖地霊鷲山を模し「霊山」と呼ぶようになったと言われている。山名の霊仙山はこれに由来する。7世紀後半には山頂に泰澄が大日如来の尊像を安置し、霊山寺を建立したとあり、霊仙山周辺に七つの別院(落合の観音寺河内の安養寺、大杉の大杉寺、仏生寺、荘厳寺、男鬼の男鬼寺、丹生の松尾寺)を建立して修業したが、今では天台宗に宗旨変えした松尾寺を除いて残っていない。山頂で僅か10分間を過ごし、1330分に下山を開始する。東へ下り雪渓を踏んで、笹尾根を歩くと、すぐ岩ノ峰。一寸したピークには石柱が立てられていた。この石柱は、新八イ話35号、岩野さんが書いた「近江側から登る鈴鹿の山々(63)」に、「昔は、佐和山城主石田三成が設定した境界線が守られていたが、明治維新に政府が変わると、岐阜県上石津村と滋賀県とで境界争いが起こり裁判沙汰になった。明治43年の判決の際に、主な境界に石柱を立てることになったが、この石柱はこの時設置された石柱である」と書かれている。しかし、現在の岐阜、滋賀県の県境は、谷山から白谷東尾根を通っているので、このピークは通ってなく、いつ境界が変更になったのかは、更に調べないと分からない。

岩ノ峰から転げ落ちそうな急斜面を下る。以前は踏み跡のような切り開きがあったように記憶しているが、下る位置を違えたのか、人が通ったような跡は全く無い。急坂が怖い彼が先頭に、藪の薄い個所を選んで下って行く。足を滑らさないように注意しながら20分も下ると、やっと疎林の尾根に乗った。標高差100m程の下りだったが、後ろを見あげると、今踏んできた最高点が頭上にあり、下って来た斜面が壁のようにも見えていた。

尾根を下ると踏み跡が現れる。先程の斜面と比べると雲泥の差で、勾配はゆるく歩き易い尾根だった。緊張が解けたのか段差を下りる時、たまらずアレが出てしまう。自分では小さな音だと思っていたが、その音を後ろを歩く年の割には耳聡いお嬢に聞かれてしまった。黙ってくれれば良いものを、それを吹聴するから赤面するしかない。以前も聞かれたことがあったので、これで二回目。快適に尾根を下って行くと、白谷林道へ下りた。

林道を南へ歩き、林道のヘアピンからコザトへ向かう尾根へ入って、杉林に沿って西へ延びる尾根を下る。尾根分岐から右手の尾根を鞍部へ下り、そこから杉林の急斜面を重谷へ向かって急降下。1515分に重谷へ下りた。谷を西南へ下ると小屋があり、比較的平坦な谷床の広い杉林の谷に出る。この林にはコゴミの株がアチコチに見られたが、芽の出る気配は全く無い。岩野さんは、この場所で皆にコゴミを採ってもらおうと考えて、重谷へ下ったのだと言っていたが、時期は2週間は早かったかもしれなかった。

下るにつれて谷幅は狭くなり、岩ガラの谷床となってくる。行者谷との分岐を越え、上から落石が落ちてきたらどうしようもない、両側ガレ場の狭い谷を抜け、奥の権現のある権現谷分岐に下りた時には、足はガタガタ。左の谷の大岩の下から清水が沸き出している河合不動明王や口ノ権現社の鳥居を谷床に見て、長サコへ登る古い道の登り口にある地蔵尊を過ぎ、長い林道を歩いて寺院広場へ戻ると、1710分になっていた。今畑登山口へ車を取りに行った人達が帰ってくると、1730分に解散となる。

“遅くなったので、帰りも八日市から名神に乗ったが、予想以上に車が多く、本線に乗った途端にノロノロ運転。家へ帰ったのは、1930分になってしまったのだった。