鈴鹿を歩く270(新ハイ岩野氏例会) 滝谷山、サンヤリ、天狗堂 平成19年09月23日(曇り雨) 礒部記(地形図:篠立、竜ヶ岳) |
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コース 山科駅6:30⇒7:40君ケ畑8:20⇒8:45ミノガ峠道広場8:55→9:20滝谷山9:25→10:25 .844m→11:55サンヤリ12:45→13:55天狗堂14:10→15:45器地祖神社15:55→15:00広場⇒16:25ミノガ峠広場16:30⇒17:30黒丸SA17:50⇒18:40山科駅⇒19:20小倉 |
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滝谷山、サンヤリの三角点と天狗堂は、初めて平成11年に個人山行で登ったが、ミノガ峠から君ケ畑まで、多賀町と元永源寺町の境界尾根を歩いて、三つの頂きをいっぺんに踏んだのは、平成12年5月に岩野さんの例会「鈴鹿を歩く」へ参加した時が最初。その後、平成16年5月に、同じルートを歩く例会が持たれたが、その例会へは参加出来ていない。今回が岩野氏例会では3回目の縦走となったが、このルートを私が歩くのは、2回目となる。ただ、前回歩いたのが7年前のことで、しかもその時には地形図を忘れ、サブの瀬田の彼に地形図を見せてもらいながらの歩きだったので、思い違いをしていた個所もあり、記憶以上にアップダウンや急勾配の登りが多かったことには、驚かされた。 山科駅で吹田の彼女を乗せ、久し振りに往きに名神を走る。7時過ぎに八日市インターを降りると、リーダーのバイクがあったが、姿は見えない。永源寺ダムの側を走って、中畑、政所、蛭谷の部落を通り過ぎ、7時40分に木地師の発祥の地と言われる君ケ畑の広場へ着くと、リーダーは既に到着しており、我々が二番目。その後、続々と参加者の車がやってきた。この日の参加者は何時もより多い28名。何人か思いがけない人の顔も見た。地元の人にことわって、半数の車を広場へ駐車し、8時20分に8台の車に分乗し、ミノ峠へ向かい出発する。小又谷分岐を過ぎ、御池側林道を遡ると、右手斜面にはアキノノゲシなのか、菊科の花が途切れることなく続いている。走り出して25分、ミノガ峠から南へ延びる地道の林道へ300m程入り、道広場へ駐車する。ミノガ峠は、古くは近江の大杉の人達が、御池川源流へ立ち入る仕事道の峠であったが、今では舗装された車道が君ケ畑から大杉へと乗り越し、林道の四差路になっている。 ここで点呼をとり、全員が揃ったことを確認した後、私が先頭の指名を受けて、尾根に付いている道跡を南へ向かう。これまで2回の「鈴鹿を歩く」の例会では、ミノガ峠から送電線巡視路を利用して、二つの谷を渡って滝谷山の南鞍部へ出ていたが、今回の岩野さんの例会では、初めてミノガ峠から尾根伝いに滝谷山へ向かおうとするものであった。このルートは、8年前、単独で滝谷山三角点のピークハンターに来た時に通った道である。小さなピークを二つ越え、比較的しっかりした道を辿って行く。以前は東が開けていた尾根も、木々が成長して、左手間近に横たわる御池岳の姿も殆ど見ることが出来ない。やがて道が谷に入り、その道が左の尾根を乗り越えて東に消えてしまうと、そこから先は、僅かに道状に刈り取られたのか、切り開きのある急尾根の登り。フウフウ言いながら登り切ると、滝谷山山頂だった。東方が開かれていたが、生憎の曇り空。すぐ目の前に横たわる御池岳の姿の全容をハッキリと見ることは出来なかった。 以前広場状になっていた山頂には、膝迄も草木が生い茂り、その中に三角点は立っていた。標高877.0mで、点名は「滝谷」。この近くに滝谷と呼ばれる谷は無いのに、何故この点名が付いたのか分からない。標石は北向きで、東へ10度振っている。標石が少し大きく感じられたので測ってみると、15.8cm(北)×16.0cm(東西)の大きさだった。 山頂で小休止し、9時25分に南へ尾根を下る。以前に歩いた時にはしっかりした踏跡が残っていたと記憶しているが、道跡は藪に覆われ消えてしまっている。下り切ると鞍部に送電線鉄塔があり、鉄塔手前から送電線に添って巡視路を西南へ進む。そこには桧林の間引き下打ちをしている人が仕事をしていたが、この人達は何処からここ迄登って来たのだろうか?この時聞いていれば、登頂ルートの参考になったのに、残念なことをした。その先の小ピークから東南へ方向を変えて下ると、一つ目の鉄塔。尾根を歩き、「二つ目の鉄塔を越えた先で、南へ延びる尾根へ乗る」と信じていたのに、先頭の甚目寺町の彼は、鉄塔からすぐ斜面を南へ下り出す。彼は最近このルートを歩いていると言っていたので、疑心暗鬼ながら後に付いて下ると、間違いなく目的の尾根に乗った。前回はサブの地形図を見せてもらっての歩きだったので、下る地点を思い違いしていたのだった。 尾根を南へ歩き、一寸した盛り上がりから西南へ下る。この辺りの尾根には、右や左と桧の林が現れ、林業仕事の人達が入り込んでいるようで、電気鋸の音が辺りの静けさを破っている。鞍部からは目の前のピークへ登らずに、リーダーの指示に従い、遠回りして巡視路を西へ向かって、その外れから尾根を東へ登ると、844mの手前のCa830m。陽は出ていないが蒸し暑く、汗が滝のように流れ落ち、風通しの良いこの山頂で休憩を取った。 三角点は茅の中とはいえ、山頂広場に立っていた。標高はそんなに高いと思えないが、958.2mもある。点名は西の部落の名前から取った「萱原村」で、二等三角点である。標石は南向きで、南から東へ20度振っていた。この山はサンヤリと呼ばれ、別に「仏供さん山」とも呼ばれているが、山名の由来は分かっていない。 山頂でユックリ食べて、鈴鹿の彼女の一人漫談で座が沸いた後、13時45分に午後の歩き出しとなる。ここから天狗堂へ向かう尾根へ乗るには目印が無く、分かりにくいと思っていたが、三角点から50mも西へ向かうと、藪が払われた尾根へ乗るルートが出来ていた。そこに掲げられた看板には、「巡回監視中鈴鹿自然保護区君ケ畑区長」と書かれており、監視員が定期的に巡回する道になっているらしい。急な斜面を下り、芒の尾根を歩き、次のピークで東へ振って、924mまで来ると、先頭は尾根を東へ下っている。このピークは直線的に東南へ乗り越えなくてはならないので、先を歩く皆を呼び戻す。この尾根は、最初の「鈴鹿を歩く」の山行で、最後を歩いていた守山の彼と向日市の彼女の二人が、間違って進んでしまった尾根だった。 924mを下ると、尾根にはシャクナゲの木が目立ち出す。春であればシャクナゲの花を楽しみながら歩くことが出来るのに、今の時期では葉ばかりで、来春の蕾も少ない。鞍部から雑木林の急斜面をアエギ登り、一段緩くなった所まで登ると雨が降り出す。汗でシャツは既にビショビショになっているので、今さら着なくても良かったが、一応ザックカバーと雨具の上を付ける。急斜面を登り、大岩の姿を見たら、天狗堂の山頂はその上。山頂には大岩が鎮座し、その岩の上が最高点988mになっている。岩の上に4~5人が座れば一杯になってしまいそうな広さで、東側は絶壁。高所恐怖症の者にとっては耐え難いような山頂だった。この日は雨が降り、山頂からの展望は全く無い。 「天狗堂とは、天狗の住む所に相応しい峻峰であるところから、木地師の間で天狗堂と呼ぶようになったと言われているが、別に、木地師の祖である惟喬親王が、君ケ畑の守り神の天狗堂大僧都権現として、麓の金竜寺に勧請し、祈祷されたという伝承から、この山全体をご神体にして天狗堂と呼んだ、とも言われている。何れにしても木地師に関係する名称であることには違いない。 山頂は狭く、雨も降っていることもあり、順番に石の上にあがってからすぐ、下ることになった。山頂から直接御池川へ下る道を分け、南へ下る。天狗堂は遠くから見ると、天を突くように鋭角に聳えているが、下りの斜面は物凄い急斜面の下り。何人もの人が足を滑らせ転んでいた。暫く下ると次第に傾斜も緩くなり、廻りの様子も見えるようになって来た。辺りは静かな雑木林が続いている。尾根を下り、展望の無い尾根を歩いて、緩く登り返して少し進むとNHKと書かれた鉄柱のある分岐。そこを東へ下った右手の緩やかな段を、道を離れて西へ歩くと宮坂峠へ向かうが、この日は雨が降っていることもあり、誰も宮坂峠へ向かうと言う人は居らず、このままこの道を下ることに同意する。太い松の木や常緑樹を見ながら急尾根を下ると上水道の貯水槽があり、そこを過ぎると、樹齢何百年というヒノキに囲まれた大皇器地祖神社へ降りる。この神社は、惟喬親王をロクロの始祖として祀った神社で、神社に納められている氏子控帳には、九州東北に至るまで、木地師が村々を訪ねた足跡が記録されていると言う。そんな由緒ある神社の境内で、解散となり、君ケ畑広場まで戻って、夫々に車に乗せてもらいミノガ峠へ送ってもらった。 16時30分、多賀廻りで下山。多賀では雨は降っていなかったが、名神に入ると大雨に見舞われ、おまけに大渋滞で、山科へ着いたのは18時40分になってしまったのだった。 |
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