--鈴鹿を歩く255(新ハイ岩野氏例会)

高取山、猿ヶ山、高畑                 平成190107()

礒部記(地形図:彦根東部、高宮)

コース 小倉6:057:55寺院広場8:259:55 649m10:0010:15高取山→10:30分岐ピーク→10:45[昼食11:40]12:15猿ヶ山→高畑12:1513:35寺院広場13:4515:50小倉

16日、発達した低気圧は三陸沖へ抜け、7日はこの冬一番の強い冬型気圧配置へ変わり、大雪になるとの予報だった。テレビでの前夜の予報では、関西以東は全域で降水確率が60%を越えていたが、寒気が北から流れ込めば雪になるのは確実で、岩野さんのことだから、雪であれば降水確率が高くても、例会の決行は間違いないと、朝に天気予報を確認せずに、6時に家を出た。この時間では、まだ真っ暗だったが、雪が降る気配は全く無い。信楽を通る時にも道は凍っておらず、夜が明けて水口への下りでは、前方に鈴鹿の山々がクッキリと姿を見せていて、天気予報が外れた空模様だった。それが、多賀から河内線へ入ると、雪がチラつき出す。集合場所の寺院広場へ755分に着くが、何時もならこの時間には、溢れんばかりに車と人が居るのに、広場は閑散として誰も居らず、前を走って来た甚目次町の夫妻の車と私の車が停まっただけ。一瞬、例会は中止かと思った程だった。それでも集合時間までは30分もあり、チラチラ雪の降る中、時間までは待つことにしたが、15分もすると、車が次々にやって来て、その中にリーダーやサブの顔を見て帰らずにすんだ。降雪確率が高かったので、鈴鹿方面の人達は不参加だったが、この日の山行を例会として実施することに決定。この日の参加者は全員見知った顔の18名であった。

点呼の後、リーダーから計画と反対のルートを歩くとの説明があり、825分、入谷へ向かい歩き出す。車道を話ながら安原まで歩くが、後ろを見ると人数が足りない。後続の到着を待ち聞いて見ると、岩野さんから「体調が悪く、車で休んでいるので、予定通り歩いてくれ」との伝言があり、岩野さんの姿はない。正月に飲み過ぎて体調を崩したのだろうと、ここからは、山田さんをリーダーにして、17名で歩くことになった。新年最初の例会から、この年の例会を予想させるようなハップニングだった。

落合へ向かう道と分かれて、入谷への道に入る。急勾配の石畳の道には雪が残っていたが、滑ることなく登ることが出来て助かる。急な坂道をフウフウ言いながら、5分も登れば入谷の集落に着く。入谷集落は、昔は彦根藩領の村落で、元禄八年には、この狭い所に180名の人達が暮らしていたと記録されているが、現在では、夏期に何軒かに人が来るだけで、一年を通して住む人は居なくなったと聞く。2年前の5月に来た時は、道脇にはオドリコソウ、キランソウ、ミヤマキケマンが咲き乱れ、最奥の家には人がいて、この辺りの山のことなど聞いたりしたが、この時期には部落は静まり返り、人の気配は全く感じることが出来ない。神社下で一息入れ、東へ巻くように道を登ると、尾根の先端には地蔵堂が立っていて、集落には人気が無いのに、地蔵尊の前に添えられている花は、生き生きとしていた。左へ尾根を巻いてすぐ、男鬼峠、小倉尾峠へ向かう谷道と分かれて、左の道を登ると墓場に出た。堂の前には棺桶を置く台まで残っていた。

堂の横から北へ杉林の尾根を登る。杉の木の間には、通るのを拒むようにユズリハが群生している。その木の間を縫って登り、方向を北へ変えると、斜面は急になり、雑木の林の登りに変わる。斜面にはウッスラと雪が積もっていて、登るに従いその量は多くなってきた。再び杉と桧の林の登りとなり、右手から尾根を合わすと雑木の林。この辺りまで登ると、この時期には珍しく雷が鳴り、雪も舞う様になってきた。ここから急斜面を登ると平坦な疎林の・649mに着く。ここは男鬼の南に東西に横たわる尾根で、北から吹く風と雪がまともに体に当たり、二年ぶりの雪の山歩きを痛感させてくれた。

このピークから、下笹の生えた雑木の疎林の緩い斜面を西へ登ると、高取山の東のピーク。五月にはヤマシャクの乱舞が見られる場所だが、この時期には雪の敷きつめられた冬枯れ状の林に過ぎない。ここから尾根を西南へ辿り、緩く登った平坦な盛り上がりが「高取」と呼ばれているピークである。南に延びる尾根には杉の林があり、平坦なピークは笹原の雑木の疎林。ただでさえ展望が無いピークなのに、雪が降ってきて白い帳を下ろされたのでは、方向さえも分からなくなりそうな山頂であった。

高取から磁石で方向を確かめ、笹原の斜面を西へ下る。ガスで見通しが利かないので、南へ広がっている尾根の方へ行ってしまいそうな尾根である。緩く下って、鞍部から標高差20mも登ると673mの細長いピーク。ここから方向を北に変え、左桧の林の尾根を、左へ巻くように下って行くと、尾根が深く切られたような溝に当たる。ここは入谷から突谷を経て、男鬼へ越える古い道の峠だと思われるが、現在ではこの道は廃道になり道跡は残っておらず、峠だけが昔の面影を残しているのだろう。この峠の西の盛り上がりが、猿ケ山へ向かう分岐のピーク。時間はまだ早く、1030分の到着だった。

人員を確認して、分岐ピークから南へ向かう。猿ヶ山へ向かう尾根へ乗るには、右手の尾根へ乗らなくてはならないのに、先頭は魅せられたように左手へ向かい、急尾根を下って行く。後ろで地形図で進む方向を確認している最中のことだった。間違いに気付いて、「方向が違う!」「尾根が違う!」と声をかけたが、先頭まで声が届かず、尾根が切れかかった所まで下って、やっと間違いに気付いて止まった。目的の尾根は右手高くにあり、時間は早かったが、この下った風の無い谷間の杉林で昼食を取ることになった。

食べ始めると、雪は一段と激しく降り始め、アラレまで混じり出す。寒くてたまらず、杉の枯れ木を集めて火を燃やそうと、火種の新聞紙や紙に火を付けるが、木に燃え移らない。そのうち火種は無くなってしまう。これではたまらず、とにかく食べなくてはと、春雨スープに湯を注ぐが、すぐ湯は冷めてしまって春雨は柔らかくならない。仕方なく、固いまま握り飯と一緒に喉を通し、昼食とした。その間にも、バーナーを使ったりしても火は付かず、皆が焚き火をするのを諦める中、宇治の彼が火を付けようと手を真っ黒にしてまで大奮闘するが、火は燃えることなく、遂に火を燃やすのは諦めざるを得なかった。

1140分、ゴミの始末をして出発する。寒かったわりにはコーヒーまで飲んで、長居をしたものである。昼食の間に5cmも積もった雪の斜面をトラバースして、右手の尾根へ乗り、小さな細長いピークを越えて、傾斜の緩い広い疎林の斜面を登ると猿ヶ山。東には、先程踏んできた高取山のピークが寒々と間近に見えていたが、西下に見える筈の甲頭倉の集落は白の中に消え、見ることは出来なかった。

山頂から、直線状に立ち並んでいる杉の木に添って、東南へ下って行く。下り切った平な鞍部が、ミヤマ峠と呼ばれる入谷から甲頭倉へ越える古い道の峠だが、峠の痕跡は何処にもない。ただ、この峠から甲頭倉までの道は全く消えてしまっているが、入谷までの道跡は、今だ残っていると聞く。峠跡から昔に畑が作られたと言われている緩い斜面を登ると高畑。・608mのピークである。山頂は展望のない山頂で、雑木の林の中、アチコチに格好の良い石灰岩が露呈している山頂だった。

集合写真を撮った後、東南へ尾根を下る。ここからは岩ガラの尾根に変り、低いイヌツゲの木が、行く手を遮る。下るにつれ尾根は細くなり、岩を乗り越え、踏んでの下りとなる。岩には雪が積もっていて、何度も足を滑らせそうになる程だった。足元に注意して下り、杉の木が群生している所まで下れば、左手へ下る尾根分岐地点は100m程先。

尾根が細くなり、傾斜がキツクなって、カラタチの木がアチコチに現れると分岐地点の目印。斜面は急過ぎる程急で、この下に尾根が出ているとは思えないが、アンテナの残骸から延びているアンテナ線の方向へ下れば、浅い尾根に乗ることが出来る。先頭はそのまま主尾根を下った様だが、後ろからサブと二人で「左」「左!」と声をかけると、途中からの人がケーブル線に添って左の斜面を下り出す。後ろに居たのでは、誰がどう下だったのかは分からなかったが、前の人に続いて転げ落ちそうな急斜面を下り、尾根に乗った所で人数を確認をすると、結局、6人がリーダーと一緒に主尾根を下り、残りの11人がこの尾根に乗ったことが分かった。下の道までは約100m程の高度で、そこから急な尾根を下り河内線の車道へと降りた。1330分の下山だった。

朝、車道に雪は見なかったのに、今見ると、道には雪が5cmも積もっていた。まだ降りてきていない6人の確認をサブに任せて寺院広場へ戻ると、岩野さんが守山の彼の車に乗って待っていた。この雪では、さぞかし寒く退屈だったに違いない。

1440分、この日の例会は解散。雪でスリップし、車の尻を振りながら河内線を走り、国道307号線まで出ると、道に雪は全く残っていなかった。