・鈴鹿を歩く247(新ハイ・岩野氏例会) 御在所岳、国見岳 平成18年09月10日(曇り晴) 磯記(地形図:御在所山) |
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コース 小倉6:0⇒7:50武平峠西広場8:25→8:35武平峠→9:55御在所岳→10:15国見峠→10:45国見岳→12:40ブナ清水13:30→13:55根ノ平峠14:05→14:55コク俗分岐15:00→16:10雨乞岳一16:30般道→ 沢谷峠16:45→17:15武平峠西広場17:35⇒(菩提樹SA) ⇒19:20小倉 |
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岩野さんの7月、8月の例会は沢登り一色で、山歩きの例会は組んでいない。二ヶ月ぶりに行われた9月第一回目の山歩きの例会は、武平峠から御在所岳、国見岳、根ノ平峠と尾根を歩いて、神崎川源流を遡って、武平峠へ戻る回遊ルートだった。特に、武平峠から根ノ平峠までの県境尾根を岩野さんの例会で歩くのは初めてのことで、部分的に抜けている個所はあるにせよ、これで鈴鹿山系の南の油日岳から北の五僧峠までの滋賀県と三重県の県境を、岩野さんの例会で歩いたことになる。 8時25分、武平峠トンネル西広場を出発し、武平峠へ登り始める。この日の参加者は28名だったが、5回の例会を欠席している間に、新しい顔の人も何人か増えていた。ゆっくり登り約10分程の登りで武平峠へ着く。武平峠は、近江から美濃、伊勢へ越える10道ある古道の一つで、「仁正寺越」と呼ばれた伊勢の桑名、四日市から近江の大河原、土山に越える古道の峠である。40年程前に、野洲ダムが出来るまでは古道が残っていて、その道を歩いて御在所岳や鎌ヶ岳へ登ったものだが、鈴鹿スカイラインが出来てから、三重県側の舌道は残っているものの、滋賀県側の道は寸断され、車で武平峠のすぐ下まで登ることが出来るようになったこともあり、古い道を歩く人はいなくなってしまった。ただ、武平峠だけは今でも登山者の基点となり、昔の面影を残している。 峠から南へ登れば鎌ヶ岳へ行き着くが、御在所岳へは北の道を登る。すぐ道の勾配が増し、登る道は深くえぐれて、上から笹や灌木が覆い被さり、トンネルの中を登って行くようにも思える。道が尾根に乗り、両側の灌木が切れると、後には鎌ヶ岳の姿が高く、大きく聳え立っている。再び、深くえぐれた道を登ると岩峰に出た。指さし岩等のある岩塊の尾根で、ここからの展望は言うことなし。南には鎌ヶ岳の鋭峰が聳え、右手には高丸、サクラグチ能登ヶ峰、遠くには那須ヶ原の連山までも見ることが出来た。天気予報では午前の降水確率が50%であったが、日が顔を出し、雨の気配を感じさせない天気であった。空にはトンビ?が舞い、岩の間にはヨメナ、ミヤマママコナ、アキノキリンソウが花を開いている。遅れているリーダーを待つ間、しばし、その光景に時を忘れる。 遅れていたリーダーの顔を見て、皆の後を追い登り始める。ここからの道は勾配も緩くなり、間もなく皆の待っている上の広場へ着く。進入禁止になっているゴミ廃棄場の側を通って、遊歩道を北へ歩く。長者池上の道分岐で、リーダーと4人が山上公園廻りで国見峠へ向かったが、残りは御在所岳三角点へ向かった。御在所岳の名前の由来は、俗説では「鎌ヶ岳よりこちらのピークの方が高いでゴザイショ」から名付けられたとあるが、「垂仁天皇の皇女である倭姫命(ヤマトヒメノミコト)が、山頂付近に天照大神の霊を安置して、壬所、御在所(みあらか)を設けたことに由来する」と言う説の方が有力である。 御在所岳一等三角点は、柵で囲まれた小山の中に立っていた。点名は「御在所山」である。三角点の後には大きな看板が立っていて、三角点の緯度、経度、そして標高1211.95mと書かれていたが、標高が間違っている。正確には1209.75mが正しい。「この表示は間違い」と、国土地理院も指摘している筈だが、今もって書き直されていない。看板に書いてある標高は、この西にあるピークの標高点1212mと思われる。(標高点は小数点以下の表示はしない) 三角点に挨拶をして、国見峠へ向かう。たまたまそこに居たリフト関係者である四日市の彼の知人に許可をもらい、スキー場脇を通って、ガレ場から国見峠へ直接近道を下ることが出来た。国見峠で休んでいると、先行したリーダーと4人が下りてきた。 国見峠から北へ登り返す。15分も溝状に掘られた道を登るとガレ場に出た。いつの間にかガスが出て、展望を遮っていたが、そのガスが風に流され、間近に三角点峰やスキー場が見えていた。ここから平坦な尾根を歩き、僅か登れば国見岳山頂、Cal170mのピークだった。この山名は「領主が自分の支配する領地を見渡したことから名付けられた」と言われている通り、岩の上に立つと東方に展望が開ける。ただ、この日はガスが出てきて、目の下の青岳やキノコ岩根ノ平峠へ向かう尾根までは見下ろせたが、遠く菰野までは見ることが出来なかった。 林の中を10m程潜り、北の展望台で目の下に畝る尾根や県境の山々を眺めた後、根ノ平峠への道を下る。計画ではこのまま一般路を下ることになっていたが、誰かの要望で、ブナ清水を通って根ノ平峠へ向かうことに変更になった。ブナ清水とは、根ノ平峠下から東へ入り、伊勢谷源頭の・946m下にある大岩から清水の流れ出るブナ林の平坦な場所をそう呼んでいる。これまで数人の人が行ったことがあるが、何れも根ノ平峠から入り、上の尾根へ抜けたもので、反対に上の尾根から下ったことのある人は誰もいない。リーダーも行ったことが無かったので、リーダーは鈴鹿に詳しい四日市の彼に誘導を依頼した。 急な溝状の道を下り尾根に乗り、ピークとも思えないのに青岳と名付けられた岩場の手前から北へ下るとハライドへの分岐。当然、ブナ清水にはこの道を東へ向かい、1084mの手前から尾根を北へ下るものだとばかり思っていたのに、先頭はこの道へ入ることなく根ノ平峠への道を進んで行く。列の後に居た、ブナ清水からこの尾根に登ったことのあるサブと私ともう一人が、口々に「道が違ってる!」「上の尾根から下らないのか!」と声をかけるが、先頭は止まる様子は全く無い。その上、四日市の彼を信頼しているリーダーに、「こっちへ来い!」と言われたのでは、それに従うしかなかった。しばらく下り、大岩のある所で先導の彼に、「何処から入るのか?」と聞くと、「この下の尾根の途中から斜面を横切り、ブナ清水へ向かう」との返事。地形図を見ると、ブナ清水までは直線距離で500m程で、斜面は急だが大きな登り下りも少ないと読んだのだが、いざ、下ってみると、小さな尾根と谷を4っつも越えなくてはならなかったとは~。 大岩から急な坂道を下ってすぐ、先頭は右の斜面に踏み込んだのに、前を歩く数人はそのまま道を下って行く。これは変だと思い、前の何人かを止めたが、更に3人が前を歩いていると言う。慌てて、「ストップ!」「引き返せ!」と叫ぶと、「何を言ってるの!」「うるさい!」とお嬢の声が返ってくる。何でこんなことを言われなければならないのか分からなかったが、とにかく3人に引き返してもらい、ここから右手の谷へ下った。 一つ北の尾根で人員を確認し、体制を整え北東へと斜面を下って行く。辺りは鈴鹿特有の灌木の林で、そう歩くのに苦労する斜面ではない。だが、地形図に現れない微妙な谷や尾根を越えなくてはならなかった。この斜面に入り、今回初めて参加した近江八幡の彼女が、全く藪や急斜面の歩きに馴れておらず、遅れ始める。その彼女にサブと甚目寺町のご主人が付きっきり。それを見ていた急斜面に弱い彼が「無理だ!」「無理だ!」とブップツ。ここまで来たら引き返すわけにもいかず、只々、皆の後を追うしかなかった。 浅い谷を渡り、尾根を横切り、急斜面を下る。何回かこれを繰り返し、北方へ下って行くと、人の歩いたような踏跡に出合い、そこから斜面を下ると見覚えのある谷。ブナ清水はその谷を50mも遡った所だった。大岩の間から清水が湧き出し、辺りは平坦なブナの林で、情緒ある林の佇まいであった。時間は既に12時40分、ここで昼食となる。 この場所で、珍しく50分も寛ぎ、13時30分に出発となる。伊勢谷に添って付いている踏跡を下って行く。数年前に、初めてブナ清水に来た時には踏跡など全く付いていなかったが、誰かがインターネットで紹介した途端に多くの人が入り込み、道が出来てしまったのだ。伊勢谷を下り、道が谷を離れて斜面を横切るようになると、谷を3本渡って朝明から根ノ平峠へ登る一般道に出た。いつの間にか天気予報通りに空は曇り、雨さえ降り出し、根ノ平峠へ着いた時には、雷まで鳴る本降りになっていた。 根ノ平峠は近江から伊勢へ越える古道「千種越」の一峠である。この峠道は十三世紀頃には歩かれていたようで、近江商人が活躍した十五世紀には最盛を迎える。蓮如上人が延暦寺の僧徒から迫害を受け文明五年(1473年)に、甲津畑から桑名の長島に落ち延びたのもこの峠道だし、元亀元年(1570年)、信長が杉谷善住坊に鉄砲で狙撃されたのも、この峠道の一郭であった。その後、この古道は江戸期は商用、伊勢の参詣に、明治大正に至ってもまだ利用されていたと聞くが、昭和期になって、登山者の道となってしまった。現在では杉峠と根ノ平峠の間に定かでない所があるが、甲津畑から杉峠、朝明から根ノ平峠の間には、立派な道が通っていて、昔の面影を偲ばせている。 雨の中、タケ谷を西へ下り、途中の分岐から山裾を縫って南西へ向かい、上水晶谷を渡って、更に南西へ歩くと神崎川源流へ出る。ここからは谷に添って遡ると、すぐ谷分岐に着いた。ここがコクイ谷の分岐で、14時55分の到着だった。ここから右の谷を登る千種越の古道と分かれて、左のコクイ谷を遡る。谷の岸をへつったり、谷を渡ったりで、谷登りそのもの。これ程長靴を履いてきて良かったと思ったことはない。曲がりくねった谷を何度も渡り返しひたすら上流へ向かい、黒谷を左に見て、その先で、斜面を登り滝の上に出て、その沢谷をしばらく遡ると、雨乞岳への一般道へ出た。時間は16時10分だったが、あの彼女が遅れ、16時30分までこの場所で後続を待つ。 ここからは一般道の歩き。ただ、このまま武平峠へ向かったのでは時間がかかると、沢谷峠から南のピークへ登り、直接、鈴鹿スカイライン道へ下るルートを取った。道に降りてから700mは歩かなければならなかったが、急な山道の下りは短く、武平峠西広場へは予定より1時間は遅れ、暗くなる前の17時15分に戻ることが出来た。 一人健脚向きに合わない人がいて、迷惑を被った人が何人かいたが、その他の人にとっては久し振りに歩く予想外の藪ルートとブナ清水、谷遡行に大満足の様子だった。 帰路、京都方面組は竜王から名神へ乗り、菩提樹SAでコーヒーブレイクして帰った。
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