--鈴鹿を歩く241(新ハイ・岩野氏例会)

芹川谷南尾根                                                                                     平成180604()

礒部記(地形図:高宮)

コース 小倉6:007:50向倉入口道広場8:158:55向倉9:0510:05杉峠10:1510:20 ·627m14:10・向山→桃原越→桃原→向倉越→道広場.657m→Ca630m→.597m→Ca630m→11:00杉峠⇒(SA)⇒18:05小倉

今回の例会では芹川谷の南尾根を歩く。この尾根は、平成129月「鈴鹿を歩く102」例会で初めて歩いた尾根である。その例会では中村から急斜面を登り、657m627m、杉峠、向山、アミダを踏んで、杉坂峠から八重練を歩いて栗栖へ下っているが、向倉からこの尾根へ登るのは初めてだった。案内ではこの尾根を東へ歩き、中村へ下ることになっていたが、これだけでは時間が余り過ぎるのか、当日の朝、急遽ルートが変更になり、杉峠から597mまでの尾根を往復し、桃原へ下ることに決まった。

朝、早く起き過ぎてしまったので、名神には乗らず信楽廻りで走り、何時ものように愛束道の駅で朝食を取っていると、そこで待ち合わせたように鈴鹿のお嬢とお兄がやって来る。まずは挨拶を交わし、連れもって集合地の向倉手前道広場へと車を走らせる。

広場へ着いたのは750分だったが、既に大半の人が到着しており、815分には全員が揃って出発となった。この日の参加者は何時もより少なく、全員知った顔の25名。この中に、以前の例会でこの尾根を歩いた人が、リーダーを除けば9人も参加していた。

まず向倉へ向かう橋を渡ってすぐ左の道奥50m程の所にある鍾乳洞を見に行く。こんな所に鍾乳洞があるとは全く知らなかった。入口は小さな穴で、大人一人が潜り込めるギリギリの大きさだった。物好きが中に入って見ると思った以上に広く、鍾乳石が盗られた跡があったとか。体型に自信がなく、狭所恐怖症気味の者は、その穴を見るだけでパス。30分も車道を登ると向倉へ着く。向倉は江戸時代には142人もの人が住んでいたと記録にあるが、昭和44年に廃村となり、今では廃屋だけが残っているだけ。そんな廃村にも神社だけは残っており、神社に参拝へ向かった。道のどん詰まりから左手へ廻り込む小道を歩くと、奥に井戸神社が祀られていた。井戸神社は多賀神社の末社と言われ、天照大神の両親である伊弉諾尊(イサナギノミコト)、伊邪那美命(イザナミノミコト)を祭神としている。その古ぼけた社殿の前には、幹廻り11.6m、高さ39m、樹齢400年と推定されるカツラの大木が立っている。この神社に今でも参拝に来る人が居るようで、参道の道は整えられていた。

道の奥から尾根に取付く。尾根には溝状の道が刻まれていたが、歩く人がいなくなったのか荒れている。この道は「登り尾」と呼ばれた道で、古くは向倉から杉の部落へ生活物資を搬入した道だとも言われている。初めは杉の林の尾根で、アチコチにホソバテンナンショウの花を見たが、大石の上にたくましく生きるケヤキの大木を見ると、辺りは雑木の林へと変わる。しばし道跡に沿って二次林の斜面を登ると、平坦な尾根に乗った。尾根の真ん中に道が通り、両側は並木状に木が立ち並び、若葉のトンネルを歩いているような尾根で、左手の木の間からは、間近に霊仙山、南霊岳を見ることが出来た。それを見ながら歩いていると、後ろで「あった!」の声。今、花を開いたばかりと思われるキンランが一株、黄色い花を咲かせていた。初めて会った花らしい花で、撮影に一時を過ごす。

尾根の傾斜が増すと、道は山腹を巻いて西へと向かって行く。この道の側に、遅がけに咲いているヱビネの花も見た。このまま進めば向倉越へ行き着くが、次の尾根に乗った所から、道と離れて尾根を東へ登る。斜面にはサンショが生えていて、皆がフウフウ言って登っているのに、余裕のある主婦に目覚めた何人かが、その葉を摘み出す。ジグザグに斜面を登ると、向山の北にある尾根の付け根。そこには太い杉の大木が一本立っていて、根本には小さな地蔵尊が祀られていた。杉峠と呼ばれていた古い峠だった。

ここで休んでいると、「ヒルだ!」の声。その時には既に遅く、一人など胸に吸いつかれてシャツは真っ赤。ヒルを探そうにも他人の嫁さんの胸を開けるわけにもゆかず、あの方がウロウロ。良く見ると、地面の落ち葉の上にユラユラ揺れている姿が幾つも見えていた。それにしても、胸に吸いつかれるとは~

尾根を西へと進む。この杉峠から・597mへと延びる尾根を、「芹川谷南尾根」と呼んでいる。以前に腰まであるような笹を掻き分けて歩いた記憶があるが、笹は消え美しい二次林が広がっている。杉峠から5分も歩くと627mのピーク。カルスト台地を示すゴツゴツした岩がアチコチに出ているピークだった。そこを東へ下り、北側の尾根を歩いて少し登ると、枯れかけた笹が残っている広い台地に出る。展望の無い広い台地で、方向を見失うと、何処へ向かうか分からない様な平坦地だった。こんな所で、二人が真新しい通行手形を見付けた。それ以降、皆は広がって探しながら歩いたが、誰一人見付けていない

東へ進み、岩の間にエビネを見ると、その北には笹の無い緩い斜面で、二次林の疎林が広がっている。フト上を見ると、大きな木に小さな花がブラシのようになって上向きに咲いている。ウワミズザクラと言う木の花で、一般にはこんな大木にはならないらしい。この斜面の下のヤブデマリやタニウツギの咲いている池の畔で休憩となる。池にはウジャウウジャと言う程真っ黒になってモリアオガエルのオタマジャクシが蠢いていた。池から北へ登ったピークが657m。枯れた笹竹を掻き分け東へ向かうと、細い尾根を下る。下った鞍部が6年前に中村から登ってきた地点。ここで稲沢の夫妻の姿が見えなくなり、八日市の彼が探しに下ったこと、笹を掻き分け・657mのピークへ登ったこと等を思い出したが、辺りの情景は全く記憶に残っていない。西へ緩く登り返すと平坦なピークで、石垣に囲まれたような広場があった。まだ時間は1120分だったが、ここで昼食となる。すぐ東には鍋尻山が聳え、一見芹川谷南尾根の最東端であるように思えるが、このピークは一つ手前のCa630mで、岩野さんもどうやら597mと勘違いをしていたようだった。ヒルに煩わされることなく、座り込んで至福の一時を過ごす。まず、乾いた喉を潤し、食べて、そしてまた飲む。前に座った二人などは、廻り巡って来る惣菜を食べるだけで、自分の持ってきたメインディシュを食べる前に、腹一杯になってしまったと嬉しい悲鳴。食べて飲んで一息ついた所で、折角来たのだからと、597mのピークまで空身で往復することになる。標高差80m程を緩く下り、30mの高さを登ると・597m。ゴツゴツした岩のある平坦なピークで、ここまで人が来た様子は全く無かった。山頂には広場は無く、ここまで足を延ばしていたら、昼食場所にも困ったに違いなかった。そのピークから尾根の東端にある岩まで行って引き返す。昼食をとったCa630mへ登る時に、東側の緩い斜面を登ると、石垣が段々に何段にも組まれている。これを見ると、鍋尻山の岳の畑と同じように、古い時代にここまで人が通ってきて、畑を耕作していたのではないかと思われた。

1245分、杉峠へ向け尾根を引き返す。平坦な台地を横切り、往路で通らなかった鞍部へ下ると、西の斜面には苔むした岩が散在する庭園を思わすカエデの林。秋には情緒ある林に変わるかも知れなかった。この場で休憩した後、627mをかすめ、杉峠は通過して、南へ急斜面を登ると向山へ登り着く。この山域ではCa670mと目立って高いピークだが、山頂に桧が植えられていて展望は全くなかった。

向山から西南へ延びる尾根を下る。尾根が南へ振る所から、西へ延びる支尾根へ乗らなくてはならないのだが、気持ちよく尾根を下って行っている内、その分岐を見逃してしまい、気が付いた時には杉の部落の家の屋根がすぐ下に見えていた。ここから登り返したのでは辛いので、下に見える杉の部落から向倉、桃原へ向かう古い峠道を辿ることにして、峠道へと降りて北へと登った。地形図では北へ向かった道は谷分岐で二分するが、長らく歩かれていないのか、上へ向かうと道跡は消えている。歩き易い右の谷を詰めて登ると、鞍部が向倉越と呼ばれる杉の部落から向倉へ越える峠だった。峠の南側は道は消えて無かったが、北面には斜面を東へ横切って、「登り尾」へ繋がる道跡が残っていた。

もう下りだけだと思っていたのに、思いがけなく登りがあって、足も思うように動かない。一息入れて西の小ピークを越えるとすぐの鞍部が桃原越。杉から桃原へ越える峠で、先程の谷の左俣を詰めればここに至る。この峠からアミダ峰までは僅かな距離だが、先程の登りで元気を失ったのか、時間が無かったのか、アミダ峰へ登るのを止めて桃原への道を下る。この道はアミダ峰から北へ延びる尾根を下ることからか、「仏ヶ尾」と呼ばれていたと聞いた。道が尾根を離れると斜面をジグザグに下るが、その道にはヒルがウジャウジャ。チョット見ないでいると、長靴をヒルが這い上がり、それを見た度毎に止まって、払い落とさなくてはならない。斜面を横切り桃原の車道に着くと、休むどころでは無く、まずはヒルの有無の点検。その時は大丈夫と思ったが、歩き出すと靴の中で違和感が~。靴を脱いで見てみると、左足には2匹のヒルが吸いつき食事中。丸まると太ったヒルは靴の中にいて、靴下、ズボンは血で真っ赤。右足は被害がなかったが、3匹ものヒルが靴下に付いていた。かゆいと思ったら、右ヒジにも2か所吸われた跡が残っていた。

桃原は江戸時代元禄8年には、366人もの人が住んでいたそうだが、今では数戸に人が住んでいるだけだとか。昔は茶、薪、炭等で生計を立てていたそうだが、今は何処かへ働きに行かなければ、生活出来ないだろう。桃原からリーダーと二人が車道を下ったが、残りは地形図の破線を頼みに近道を下る。四日市の彼と私は地形図の破線に近いルートを下ったが、残りはもっと西の斜面を下ったようだった。車道のヘアピンから破線の道を探して斜面を谷へ下っても良かったが、川を渡る地点に自信がなく、その後は長い長い車道を歩いて車まで戻った。帰りに見ると、破線の渡渉地点には橋がかかっていた。それを知っていれば、谷へと斜面を下り、こんなに長い車道を歩くことは無かったのにと思い残念でならない。次に機会があったら、この斜面を下って見たいものである。