--鈴鹿を歩く238(新ハイ・岩野氏例会) 高畑、猿ヶ山を経て男鬼へ 平成18年04月16日(曇り後晴) 磯部記(地形図:彦根東部、高宮) |
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コース 小倉5:45⇒7:45寺院広場8:30→(中村) →10:25高畑10:30→10:50猿ケ山→11:45比婆之山→11:55比婆神社13:00→13:40男鬼町45:00→15:30寺院広場15:40⇒17:40小倉 |
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昨年秋の退院以来、体調を考え雪山歩きは敬遠し、岩野さんの例会へは4月から参加することにしていた。久し振りに参加を申し込んだ4月2日の「霊仙山西南尾根」は雨のため中止となってしまい、今回の高畑、猿ヶ山例会が、今年初めて参加した岩野さんの例会ということになる。岩野さんの例会で男鬼の南に東西に横たわる尾根を歩くのは、今回で3回目になるが、高畑、猿ヶ山の尾根を登るのは初めて。昨年秋に高取山からイワスまでを歩く例会があったが、私は入院していて参加出来なかったので、男鬼南の尾根を歩くのは、6年振りのことになる。その時に春の数多くの花を見たのを思い出すと、今回も思い掛けない花に出会えるかもしれないと、期待を持っての参加だった。 昨晩の天気予報での降水確率は午前60%、午後10%。朝のうち雨が残るとの予報だったが、家を出る時には雨は上がっていた。名神から見ると、鈴鹿の山々は雲に覆われ、雨の中の山行を予想させられる。偶然、黒丸SAでサブの車に会い、その後ろを走り集合場所の寺院広場へと向かう。芹川沿いの道を遡ると道脇には、前週には全く咲いていなかったミヤマキケマン、白いニリンソウの花やツツジのピンクの花が目につく。 参加者は殆ど見知った顔で、今年初めて会った方々が多かったが、体を気遣ってくれる言葉が嬉しい。この日の山行予定ルートは、初めての高畑、猿ケ山の尾根を登り、男鬼南の尾根を高取山踏んで入谷へ下ることになっていたが、時間が短過ぎることと、花を見る意味から男鬼へ下って、車道を寺院広場へ戻ることに変更された。今回の山行申込み者は32名だったが、午前中の降水確率が影響したのか欠席者が出て、27名での例会となった。 8時30分、中村まで戻り、道ヘアピンとっ突の人家の横から尾根に取付く。登り始めは杉の林の急斜面の尾根で、大きく足を上げて体を持ち上げないと登れないような尾根である。尾根にはテレビアンテナのケーブル?が走っていて、その設営のためか、微かな踏跡が続いている。杉の林を過ぎると雑木の林に変り、足元にはスハマソウの花を見付ける。登るにつれ、岩がらみの斜面になってきて、岩を落さないように登るのに苦労する。 標高差200mも登ったろうか、左の尾根と合う地点辺りまで登と、カラタチの木が数本立っていた。スグリの木もある。昨秋にリーダーがこの尾根を登った時に、黄色のカラタチの実を見たと言っているが、今の時期には葉すら出ていない。ここから尾根はカレンフェルトの岩塊の尾根にと変わる。緑の苔を付けた岩を乗り越えたり、廻り込んだりしての登りで、岩の間に密生している低いイヌツゲの木が煩い。岩には苔ばかりでなく、フウロソウの葉も出ており、岩の間にはヒトリシズカやヤマシャクの蕾もアチコチに見る。 尾根の勾配が緩くなり、尾根が西へ振ると、岩も少なくなり尾根も広がってきて、雑木の林が目の前に広がってくる。右手から来る杉の林を抜けると、比較的平坦なピークに着く。ここが高畑と呼ばれるピークで、この北の鞍部にあった入谷から甲頭倉へ越えるミヤマ峠が生きていた頃、この辺りで畑を作っていたことから、高畑と呼ばれるようになったと言われているピークである。山頂一帯は趣ある雑木の疎林に囲まれていたが、北斜面は緩やかな斜面で、畑を作ってもおかしくないような斜面だった。 このピークで、申し込みがあったが時間までに姿を現さず、欠席としていた女性が、3名の人を連れて追いついてきた。寺院広場へ7分遅れで到着したが、尾根を登る人の列を見て登ってきたのだとか。3人は申し込んではいなかったが、我々に同行し、一緒の行動をとるとのことだったので、パーティに加わった。ここで参加者は31名となった。 高畑から広い尾根を北西へ下る。廃道になって久しいのか、鞍部にミヤマ峠の道跡は全く残っていない。鞍部から尾根に2~3本並んだ杉の木の列に添って登ると、猿ヶ山。標高637mと書いてある本もあるが、地形図で読むとCa630mのピークで、その山名の由来は分かっていない。山頂に立つと、東には木々の間から高取山が間近に見え、西斜面には雑木林が広がり、遠くには彦根の町が、すぐ下には甲頭倉の部落が見えていた。朝登り始めた時には山の上にはガスが立ち込めていたが、ここに来ると陽も顔を出してきた。降水確率を信じて、この日の山行を欠席した人々が気の毒でならない。 猿ヶ山から北西へ下り、小さなコブを越えて急登すると、男鬼町の南に東西に渡り屏風のように立ちはだかる尾根へと乗る。この尾根を東へ向かえば高取山だが、予定を変更し西の比之山へと向かった。この尾根は岩野さんの例会で昨年10月に歩いているが、私は入院のため歩いておらず、平成12年4月以来、6年振りに歩くことになる。以前、笹に覆われていて、歩くのにも苦労した尾根であったのに、今では笹も枯れかけ、歩き易い尾根へと変わっていた。コブを越えて西へ歩くと、尾根が切れて道が横切っているような地形の場所があった。ここが地形図の破線の道の峠で、甲頭倉から男鬼へ越えるハナシノ越と呼ばれた峠かも知れない。斜面の両側を覗き込むが、道らしい跡は全く残っていない。尾根を登ってピークから北へ70mも歩くと、669mの比婆之山。南北に細長いピークで、何処が一番高い所なのか分からないようなピークである。ピークの最北から雑木林を緩く下ると、比婆神社へ降りる。比婆神社は湖北地方が出雲国であったという、近江高天ヶ原説を信奉する人々により建立された神社で、御神体である白い大岩の前に社が建っている。まずはこの神社にお賽銭もあげずに参拝。二礼二拍一礼してこの日の山行の安全を祈願する。その後、この境内のまだ蕾も膨らんでいない桜の木の下で、昼食となった。昼食時間は1時間もとってもらえ、岩野さんの例会では珍しくも長い時間だった。桜はここでは咲いていなかったが、陽は暖かく、春そのものの陽気だった。その陽気に誘われたのか、こんな場所にも「鈴鹿の主」が姿を現す。それを聞いただけで飛び上がる太秦の彼女。出てきた太いミミズを見ても逃げ廻っていた。 昼食を終えると、例会の後半は車道の歩きで男鬼へ下る。男鬼には、まだフクジュソウが残っているとのことで、今年の霊仙山のフクジュソウ鑑賞山行が、雨で流れてしまったことの埋め合わせで、花を皆に見せてあげたいという気持ちなのであろう。初めは比婆神社の信者の寄付によって造られたという車道を下るが、一部の人はサブと一緒に昔の参道を下った。歩く人が無くなったのか、参道は相当荒れている。車道から旧参道の取付きには、「比婆大神へ右八丁」と彫られた石柱が建っていた。比婆神社へ向かう車道の入口には、昭和14年に建てられた立派な鳥居が残っていて、「比婆大神」と掲げられている。道を挟んだ北の斜面には、何のものかは分からなかったが、「比婆神山開山先覚者慰霊碑」「向宮霊神」「竜己霊神」と彫られた大きな石が置かれていた。 道を東へ下り男鬼の部落へ入る。男鬼の村が開かれたのは、近江高天ヶ原説にもよるのか、遠く神代の時代とも言われておるが、中世には、霊仙寺の七別院の一つである男鬼寺があったことでも、阿原豊後守の男鬼城があったことでも知られており、江戸時代に140名の村民が住んでいた記録が残っている。夏期には、人が戻って来ることがあると聞いているが、この時期には人の居る気配も全く感じられない。そんな人気のない家の庭先に入り込んで、まだ咲いているフクジュソウを楽しむ。 時間がまだ早く、彦根市少年の家の前の広場で、最後の休憩を取る。この間、男共はザックの中の飲み物の整理に忙しく、女達はフキノトウ、ツクシ、ヤブカンゾウや山葵の葉摘みに精を出す。20分もこの広場で過ごすと、14時、長い長い林道歩きが始まる。 昨年まで車で走ることが出来たのに、車道は倒木に塞がれ、その木を跨いだり、潜ったり、廻り込んだりの歩き。そんな歩きの途中、倒木を廻り込んだ林の中で、サブがお頭付きの「通行手形」を見付ける。高畑へ登る時に、向日市の彼女が一本の「通行手形」を拾ったが、お頭付きとはめったに見られない。先頭を歩いていた私を含めた数人は、それには全く気付かなかったが、強がりではないが、例え見付けたとしても、家へ持って帰ればウチノ人から「こんな物拾ってきて気持ち悪い。どうするの?」と言われるのが関の山。長い長い舗装路を歩き、やっと落合へ出る。先週、家の庭先にまで車で溢れ返っていたのに、この日登山者の車は全く見当たらない。墓地まで来ると、先週満開であったセツブンソウの花が、まだ残っていた。今年、セツブンソウの花を見ていない人達が、夫々に写真を撮っている。今畑登山口の閑散とした駐車場を見て、河内の風穴を通り、寺院広場へ戻ったのは15時30分。これで例会は解散となった。 帰路、岩野さんの案内で、イチリンソウ、ニリンソウ、スハマソウの花を見ながら帰ったが、朝通った時に見た道端のカタクリの花は消えて無く、葉だけが捨てられていた。 |
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