--鈴鹿を歩く191(新ハイ・岩野氏例会) 雨乞岳△1238.0m 平成16年04月18日(晴) 磯部記(地形図日野東部、御在所山) |
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コース 小倉6:00⇒7:40藤切谷旧道分岐8:20→9:35奥ノ畑谷分岐→9:50尾根取付き→11:45西尾根交点12:35→12:45雨乞岳12:55→13:05南雨乞岳→13:40奥の畑奥ノ畑谷分岐13:50→奥の畑→15:05奥の畑谷分岐15:10→16:05藤切谷旧林道分岐16:20⇒小倉18.20 |
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今年になって岩野山の例会へ参加するのは、この例会で2回目。鈴鹿へ足を運んだのは3回目だった。 久し振りの参加で嬉しかったのか、少し早く家を出過ぎて、藤切谷旧林道分岐には7時40分に着いてしまう。この時間に既に多くの車が停まっていた。久し振りに常連の皆さんにお会い出来たので、まずは挨拶に時間を費やす。この日の参加者は37名。初めて顔を見る人も何人かは居るようだ。この日岐阜のあの人の例会があるのに、サブである四日市の彼も参加していた。 定刻前に全員が揃い、8時20分に出発。この日の案内では奥ノ畑谷を登って雨乞岳へ。下りは雨乞岳西尾根を下ることになっていたが、急遽変更になり、奥ノ畑谷から初めての尾根を雨乞岳へと直登し、帰りは奥ノ畑谷を下るとのこと。新しいルートを歩くことが出来て嬉しいが、何時ものルートをとるのだと思い、カメラを置いてきたのが悔やまれる。長い切谷林道を上流へと歩く。日野、甲津畑からこの藤切谷沿いを通って、杉峠、根の平峠を越えて朝明、四日市へ向かう昔の道を「千草越」と呼び、商人達にとっては鎌倉時代以前から近江と伊勢を結ぶ重要な道であった。延暦寺の僧達の迫害に会い、日野を経てこの地に逃げ込んだ蓮如上人もこの道を歩き、織田信長も、浅井、六角勢や一揆勢に八風街道が塞がれたため、この峠越えをとり、杉谷善住坊に狙撃されたことでも知られている道である。そんな道を歩いている。道脇にはタチツボスミレ、ミヤマキケマンが点々と続き、ハルリンドウやクロバナエンレイソウも目にする。この林道歩きで、リーダーに適当に歩いて良いと言われたが、先を歩く10人の姿はいつの間にか見えなくなっていた。 桜地蔵の手前で全員が集合し、今度は揃って歩き出す。道が橋を渡ると、アケビダンへの道を分け、しばらく、杉の林を歩くとツルベ谷への分岐。山際の道を南へ向かうと、斜面に一面に小さな花を付けたヤマルリソウの群生を見る。木々の間から前上方に高く高く雨乞岳の西尾根先端が見えている。気の遠くなりそうな高さだった。 道が東へと廻り込んで、少し歩くと谷を渡る。ここが奥ノ畑谷の入口である。このまま進めば、蓮如上人旧跡のある塩の集積場所だった塩津、向山鉱山跡を経て杉峠へ行くが、ここから右手左岸の踏跡を辿る。尾根を廻り込むとすぐ、左斜面にはイワウチワが花を開いていた。その先、奥ノ畑谷を渡り杉林の河原の踏跡を登り、左に最初の谷が来ている少し上から右岸へ渡る。この尾根がこの日登ろうとする尾根で、取付きは平坦だったが、すぐ上は見上げるばかりの急斜面。リーダーから「上へ登れ!」との指示が出ると、バラバラと斜面に取付き登り出す。さすが、若い人達は登るのが早く、置いて行かれてしまう。やっと登り切ると狭くなっている平坦尾根。山桜の花を見ながら身体を休める。その先は細尾根の登りに変わった。この辺りにまだ春は来ていないのか緑は無く、立ち枯れ状の林の中に、点々とタムシバの白い花だけが目につく。 ガレ場の緑の細尾根を登って行くと、やがて、右手から尾根が来て、広い斜面の登りとなる。勾配は急で滑らないように一歩一歩登るしかない。ジグザグにルートをとり、やっとのことで緩い尾根へ乗り、左へ向かった所の平坦尾根で後続を待つ。ここまでは何とか先頭グループに付いて登ってきたが、腰を下ろして休んだら、ドッと疲れが足へと来た。タムシバのある林の間から、すぐ北に見えるダイジョウを見て、疲れを癒す。 10分も休んでいたか、やっと後続が追いついてきた。緩い尾根を登ると1048m西の崖の緑。南の展望が開け、目の前に奥ノ畑谷を挟んで、綿向山から清水ノ頭、南雨乞岳へ連なる壮大な尾根が横たわっている。この日、カメラを持ってきていなかったので、ただただ、その光景を目に焼きつけるしかなかった。 ・1048mのピークを越えると、目の前に急斜面が立ち塞がる。最後の標高差150m程の急登である。登って行くと右手から尾根がやってきて、それが一つになる手前には、日本庭園の苔むした岩を見ているような石組み。その石と木々と笹原とがマッチして、何とも表現出来ない趣があった。登るにつれ、斜面の勾配が増し、笹の量も濃くなってくる。足は重くなる一方で、十歩登っては休み、五歩登っては足を休める登り。ここまでが限界で、気が付くと自分の後には、片手で数える程しか人が残っていない。それでもリーダーが後に居るのが分かり、人知れずホッと一息つく。 緩い尾根に乗れば、西尾根の合流点までは僅か。平坦尾根に乗って「ここで昼食!」の声を聞いた時には、本当言って「助かった!」の一言だった。天気は上々で、辺りに木の無い笹原の尾根で、陽の光を遮るものは何も無い。誰だとは言わないが、中に傘をさしたり、布で顔を覆って無駄な抵抗をしている人もいた。とにかく暑さが厳しく、前日とは違って、真っ先にビールで喉を潤す。疲れで食欲はなかったが、食べ出したら入るもので、自分の持ってきた握り飯は一つ食べただけで、あとは廻ってきた焼き肉、ジャコ天、たけのこ、セロリなど、思い出せない程、腹に詰め込む。これなら太っても仕方ないか。 目の前に広がるイブネ、クラシや北方の山々を眺めながら50分を過ごし、腰を上げて、山頂へと向かう。西雨乞岳を越えて、深い笹藪を漕いで進むと目の前に池が~。この池は雨乞岳の山頂にある「大峠ノ沢」と呼ばれる池なそうで、酒肴を添えて雨乞いを祈祷した池であると言う。ただ、雨乞いの風習は、藤切谷から杉峠を経て、また大河原から奥ノ畑峠を越えてやって来た近江の人達の風習で、伊勢側には見られなかったと聞く。 池から5mも笹を掻き分けると、雨乞岳山頂。三角点は広場の北の端に立っている。標高1238.0mで、点名も山名と同じく「雨乞岳」である。2年前来た時には、西方は林に遮られ何も見えなかったが、今では林が切られ、西の展望を目の当たりすることが出来た。山頂の東の外れへ出ると、目の前に大パノラマが広がっている。一番左奥に釈迦岳が見え、国見岳、御在所岳がその横に。手前には笹で覆われた東雨乞岳が横たわっている。その山腹を覆う笹原の緑が美しい。尖った鋭峰が鎌ヶ岳で、武平峠の上に雲母峰が灰色に浮き上がっている。釜尾根の右には水沢岳、仙ヶ岳が頭を出し、遠くに高畑山、那須ヶ原山の連なりが黒い陰になっていた。何時見ても飽きない光景であった。 山頂南で一息入れる。足元には可愛らしいハルリンドウが花を開いていた。休んだ後は南雨乞岳へ向かい笹原を下る。道の無い笹原の歩きは、思っていた以上に足に負担が大きい。南雨乞岳から方向を西へ向け尾根を下ると、遠くに綿向山が、目の下には清水ノ頭の尾根が雄大に見えている。ここにはショウジョウバカマの花を見る。下り切った所の緩い鞍部が奥ノ畑峠だが、以前にあった古い標識は何処かに消えて無くなっていた。 ガレ場の手前、樹林と笹原の境界の西から小さな尾根を北へ下る。下る場所が分からなかったか、それまで西のピークで休んでいた単独の男の人が、待ってましたとばかりに一緒に下り出す。リーダーが聞くと「谷へ下る」とだけの返事で、何の挨拶も無い。通常、一緒に下るなら、何かの挨拶があってしかるべきなのに、こんな常識の無い登山者がいるとは、ただただ驚くばかりだった。 奥ノ畑谷源頭の炭焼き釜の跡から、谷下りが始まる。谷と言っても疎林の広がる幅広い谷で、今息吹いたばかりのバイケイソウの若葉が、鮮やかな緑を呈している。谷とも思えぬ疎林を下り、谷を二度程渡り返して、谷が右へ向く所に、太い大きな木が一本立っている。葉が出ていないので何の木か分からないが、相当の年代を経ているに違いない。その下部の木の少ない広い宥らかな斜面が奥ノ畑と呼ばれる、昔、畑のあった場所だと言う。田畑を受け継ぐことの出来なかった次男、三男が奥ノ畑峠を越えて耕しに来たのだとか。広い緩やかな斜面には、バイケイソウの若芽が冴え、数え切れない程あるシロモジの黄色い花が春を呼んでいた。ここで最後の飲み物の整理を行う。 朝に登った尾根を右に見て、下って行くと足元に可愛らしい小さな花が~。ワチガイソか、ワダソウかで意見が分かれていたが、何れもナデシコ科のワチガイソウ属の花。点がはっきりしていたので、ワチガイソウだったかもしれない。カメラを持って行かなかったので写真を撮れず、これまた特定は出来ない。それにしても、良く花を見つけ、花の名を知っている人が居るものだと感心するばかり。 奥ノ畑谷分岐には15時5分に帰着。後は長い林道を戻るだけ。先を歩く三重方面の生きの良い女の人3人に追いつこうと必死に歩くが、ドンドン離されるだけ。大久保のご夫妻と話ながら歩き、車へ戻ったのは16時10分。帰る用意をして足のストレッチをし終った頃にやっと後続が帰ってきた。16時20分、会は解散となった。 宇治の彼を乗せ、信楽廻りで家路にとついた。 |
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