鈴鹿を歩く180(新ハイ岩野氏例会) 藤原岳、頭陀の窟 平成15年11月09日(曇り) 礒部記(地形図:篠立、竜ヶ岳) |
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コース:小倉6:05⇒7:50焼野ヘリボート広場8:00⇒8:30茨川→9:50県境尾根→11:10藤原展望丘(Ca1140m)11:20→11:40藤原山荘12:15→12:40天狗岩→13:10頭陀ケ平(△1143.4m)→13:35白船峠→13:50真ノ谷→14:20頭陀の窟14:40→15:30三筋の滝15:40→15:30三筋の滝15:40→16:35茨川16:45→⇒17:10ヘリポート広場17:15⇒18:45小倉 |
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岩野さんの今年の例会で、滋賀、三重の県境尾根を歩く例会は3回行われたが、4回目のこの日の例会では、茨川から尾根へ登り、県境尾根を歩いて藤原岳展望丘、天狗岩、頭陀ヶ平を踏んで、白船峠へ。そこから真ノ谷へ下って、谷を茨川へと戻ろうと言うものであった。この周回ルートは、一部ルートは違うものの、過去に逆向きに1回歩かれているが、私がこのルートを歩くのは初めてだった。 集合時間は茶屋川林道焼野ヘリポート広場へ8時。10分前に到着したので、歩く準備をするとすぐ出発だ。9台の車に分乗して茨川へと向かう。この日の参加者は35名で、久し振りに参加した四日市の彼の顔も見る。ガタボコの悪路を走り、茶屋川林道終点、茨川に到着。点呼、人員確認の後、8時30分に出発となった。 茨川は16世紀以前から村が形成され、佐々木一党や秀吉が北勢攻略のため、君ケ畑経由でこの集落を通って軍を北勢へ送っており、歴史的には重要な地であった。江戸時代には商人が北勢地方との交流に、茶店や宿を利用し、この辺りで銀山が発見されてから活気に溢れるが、それも一時的なもので、鉱山が閉められた後は、開墾と林業で細々と暮らしてきたが、ついに昭和40年に全村離村で、村の歴史が閉じたのだと言う。八工山岳部の小屋は別にして、谷の左岸一帯には、何軒かの朽ち果てた家屋が残っていた。 谷を渡り、黄色に色付いたイチョウの落ち葉を踏んで、山岳部小屋脇の道に入ると道標がある。右は伊勢谷沿いに治田峠へ向かう道で、左は真ノ谷へ降りる。これまで紹介されている藤原岳へ登るルートは、治田峠から県境尾根を登るルート、真ノ谷を歩き、蛇谷を遡り県境尾根へ出るルート、蛇谷出合いから藤原岳西尾根を登るルートとあるが、先頭はその何れのルートをとる様子もなく、真っ直ぐ進み、目の前の尾根に取付く。微かにあった踏跡も、斜面を登り始めると何時しか消えてしまった。右手杉林、左手には広葉樹の林が広がっている尾根で、シロモジの葉が黄色く色付いて、秋の深まりを告げていた。 尾根斜面はすぐ急になるが、歩き出して間もないのに、リーダーは「先に行ってくれ」と言うなり腰を下ろしてしまう。この日もまだ調子が出ないようだ。仕方なく、リーダーを置いて、サブが先頭に立ち登り出す。登っている尾根は、一般路のある伊勢谷の北に位置する尾根で、急だとはいえ登り易い尾根だった。 急斜面を登り切った所でリーダーの到着を待つ。余程調子が悪いのか、中々姿を現さない。待ちくたびれた和歌山の彼が空身で迎えに下り、リーダーのザックを持って登ってくる。着くなりリーダーは「もう駄目だ!」の一言。それでも、薬?を飲んで、一息つくと元気を取り戻す。気が付くと、先程まで秋の気配を一杯に見せていた斜面の広葉樹の林は葉を落し、冬の到来を告げているような、立ち枯れ状の林へと変わっていた。 最後の急斜面を登ると、平坦なピーク。登り始めには細かい霧状の雨が降っていたが、それも何時しか止み、辺りは霧に包まれていた。尾根を東へ進むと、30mも前にいる人がボーと霞む程で、勿論、辺りの山々は全く見えない。次のピークに着くと、下る方向が分からなかったようで、先頭が停まっている。こんな時には地形図と磁石が頼り、方向を見定めて北東へと下る。斜面を下ると尾根に乗り、それを進むとすぐに縦走路へと出た。そこには割れた「治田峠」と書かれた標識が置かれていた。 県境尾根を東へ向かう。尾根には縦走路である踏跡が付いていたが、幾つもある小さなピークを踏まないで、巻くように北側の斜面に付いている。方向が北へ向くと、しばらくの間は斜面を切るように登って行くが、やがて、急斜面の直登へと変わる。辺りは雑木の疎林で、一歩一歩、身体を持ち上げ登らなくてはならない。ミカエリソウの枯れ花の残る斜面、マツカゼソウの斜面を登り切ると、林が切れ、藤原岳展望丘の南端へと登り着く。そこは、それまでと違って、比較的平坦で、岩のゴロゴロしたカルスト台地。岩を踏んで北へ向かうと藤原岳展望丘だった。春には、所狭しと群がっていた人の姿は無く、ただ、赤い実を付けた美しいマユミが我々の到着を歓迎してくれていただけ。皆がそれを見て「キレイ!キレイ!」と言っていたのに、この日の例会に鈴鹿のお嬢の姿は無かった。山頂に立つと、我々の到着を待っていたように霧が晴れ始める。天狗岩が霧の中から姿を現し、袴腰への笹原が眼下に広がり、遠く四日市の平野も視界に現れた。寒さを忘れ、まだ到着しない人を待ちながら、ただただ展望を楽しむ。 遅れていた一人とリーダーが到着すると、下山開始。藤原山荘での昼食となる。山荘には4人のパーティと単独の人がいるだけで、春の芋の子を洗うような人また人の騒々しさは全く無い。他のグループは、その後に到着した女性3人の8人だけ。我々のメンバーは小屋の中へ座れるだけ入り、あとは外での昼食だった。 12時15分、先はまだ長いと早目の出発となる。僅か35分の昼食時間だった。カレンフェルトの台地を登って、天狗岩へ向かう。天狗岩は1171mあり、藤原岳の最高峰である。この頃になると、登りでは全く霧で展望は無かったが、何時しか霧も晴れ、遠くの山々も見通すことが出来た。時折り、陽まで射してきている。天狗岩の南端へ行ってみると、目の前に御池岳のテーブルランドが、手の届きそうな所に横たわっていた。 天狗岩から一般道を離れ、尾根を北へ下る。疎林の尾根で、尾根を外さないように下って行くと、やがて、縦走路へと出た。坂本谷が通行禁止になって以来、歩く人が少なくなったのか、踏跡は消えようとしている。前方に見えてきた送電線鉄塔に向け登ると、鉄塔の東に三角点が立っていた。以前は笹に隠されていた三角点標石だったが、今では笹が枯れ、何処からでも見通せるようになっていた。 頭陀ヶ平、点名「坂本村」、標高は1143.4mで、二等三角点である。標石は美しく、ほぼ、南を向いている。5年振りの再会だった。 一息入れて、尾根を西へと下る。両側の林の葉は落ち、枯れ木の林に変わっているが、春には多くの花に出会える尾根でもある。下り切った荷ヶ岳手前の鞍部が白船峠。近江側の君ケ畑から伊勢尾、河倉峠を越えてきた人が、この峠を越えて伊勢へ向かったり、伊勢側の炭焼き人がこの峠を越えて近江側へ向かったと言われ、重要な意味を持つ峠だった。一般には、伊勢側の名称である「白瀬峠」と呼ばれているようだが、近江側では峠の西に火傷、金属関係の神である白船大神を祀っていたことから、「白船峠」と呼んでいる。近江側から登ることの多い我々にとっては、「白船峠」の名前の方が馴染みが深い。 白船峠から真ノ谷へ。峠の西にあったという白船神社跡が、何処にあったのか分からない。道は尾根を下って行くが、先頭は浅い谷を下って真ノ谷へと降りた。谷の降り口は小さな杉の林。真ノ谷を覆う林には木の葉が残っていて、黄色く色付いていた。この辺りの谷は水の流れていない伏水の谷。ここからゴロゴロした石を踏んでの谷下りが始まった。大岩の間を抜けたり、飛んだり下り易い所を下る。足の置き場に気を取られ、辺りを見渡す余裕が無い。それでも、時折り顔を上げて辺りを見渡すと、秋の終わりとは言え、黄色の葉や紅葉が残っていることに感動を覚える。 やがて、谷床が切れた所へ来る。そのまま谷は下れず、左岸に逃げ、固定ロープに助けられ、崖状の斜面を苦労して下った。その先、谷が左に振り、左手上に洞穴が見える所が頭陀の窟の登り口。その斜面の下には炭焼き窯の跡があり、その上に杉の木が二本立っている。急斜面を70mも登ると、そそり立つ岩壁の奥に洞窟が大きな口を開けている。奥行きは4~5m程で、高さは10m近くはあるという。「頭陀の窟」と名付けられた洞窟で、石灰岩の浸食で出来たものらしい。この洞窟を見に行っている間、4人が下で待つ。 谷を下るとすぐ土倉谷分岐で、河倉峠へ登る送電線巡視路の標識を見る。ここから谷水が現れる。その下流には太い幹を4本も出している栃の木がある幾分広い河原。そこから右へ廻り込み、で少しの距離で谷は切れてしまう。ここが三筋の滝。谷右岸の崖をローブを頼りに下ると、今迄殆ど無かった谷水が、何処から沸いてきたのか、ド~と音を立てて流れ落ちていた。この谷脇の下りでは、高所恐怖症の人が何人かいて、全員が下るのに、10分近くの時間がかかってしまった。最後の方になると、下の皆の注視の的。 滝から下流には、危ない個所は無い。ただ、谷水が次第に多くなってきて、靴を濡らさないように、何度も谷を渡り返すのに一苦労。ガレ場や水のない善右ヱ門谷を左に見て、ただ、ひたすら下る。切れ込むような蛇谷を過ぎて、何度も谷を渡り返して、神社の鳥居を見てホッと一息。茨川へ戻ったのは、16時30分。暗くなる時間ギリギリの帰着だった。川広場で解散。焼野ヘリポート広場へ車で戻った時には、辺りは真っ暗。ライトの助けをかりなくては、何も見えない程だった。 |
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