鈴鹿山麓てくてく旅

11 鈴鹿古道(山麓の道・山越えの道)

東西の物資、文化交流の足跡

【東海道関宿西追分の道標】
---------------------------------------------------------------------

鈴鹿山地の山や山麓周辺に関連して、もう一つ外せないのが「鈴鹿古道」である。平安時代に開かれた「熊野古道」が先年世界遺産に登録されたが、鈴鹿にはさらに古い奈良時代から歴史の表舞台に登場する道がある。ただ熊野古道は信仰を主に、しかも都と遠く離れた位置にあったがゆえに、当時の面影が今でもよく残っているが、鈴鹿古道は関西と関東を直結し政治・経済・産業・文化などの人的交流や物的流通の中心的な道だったので、常に新道造成や舗装修復がなされて、多くは幹線となっている。それでも当時の街道跡は随所に残されているし、道の消えた峠路も登山者などによって踏み跡は残されているところも多い。古道の面影をしのぶのも楽しい。

●鈴鹿山麓の古道

① 中山道(木曾街道)

奈良時代に東海道鈴鹿関、北陸道愛発関とともに不破関の置かれた東山道は、江戸時代に江戸と京都を結ぶ中山道として整備され、鈴鹿周辺にも関ヶ原、今須、柏原、醒井、番場、鳥居本、高宮の宿場が置かれた。壬申の乱、関ヶ原合戦など国の道また通商の道として、今に残る旧跡や遺構が多い。

② 東海道(鈴鹿越)

かつて鈴鹿関の置かれた東海道は、平安時代に入って大和道から鈴鹿峠を越える道となった。当初は阿須波道と呼ばれ、斎王巡行路、また坂上田村麿の故事などで知られ、江戸時代以降の宿駅制では、鈴鹿周辺に亀山、関、坂下、土山の各宿場が置かれた。これらの宿場跡周辺には関宿をはじめ現在も多くの遺構が残されている。③ 大和道(加太越)

奈良時代に整備された東海道鈴鹿関は、都と最短路で結ぶ伊賀から加太を越える大和道で、壬申の乱や源義経の行軍など歴史上の舞台となったが、鈴鹿越えに変わった後は、歴史の使命を終えたごとく、今も名阪国道の影で加太谷沿いの山村の道となっている。

④ 巡見街道(勢州街道)

江戸時代に幕府が諸国へ巡見使を派遣した道としてこの名がついた。鈴鹿山地の東山麓を通り、中山道関ヶ原と東海道亀山間を結んだ道は、壬申の乱や信長、秀吉軍の伊勢侵攻の史実があり美濃と伊勢をつなぐ要衝路でもあった。

⑤ 御代参街道(伊勢道)

江戸時代に朝廷が伊勢神宮と多賀大社へ代参派遣した道としてこの名がついた。中山道小幡と東海道土山をつなぐ道で、近江商人の交易や参詣道としても利用された。道中には鎌掛、石原、岡本、八日市に宿場があったが途中の笹尾峠周辺は現在は廃道化している。

⑥ 北国街道

鳥居本の北で中山道と分岐して湖岸を北上し、今庄で北陸道と合流する街道。米原宿は現在の米原駅周辺で、当時は琵琶湖内湖に接して米原湊があり、湖上交通や美濃北陸、近江に道の交差する要衝地は現在も変わらない。

     北国脇往還

関ヶ原から中山道と分岐して北陸方面へ向かう道で、木之本で北国街道と合流する。起点の関ヶ原は、今も昔も美濃と湖北や北陸を結ぶ要衝路である。

⑧ 鹿深道

鈴鹿山地南西端の甲賀町は、六世紀ごろから渡来民族の鹿深臣一族によって発した地域で、甲賀から東海道(土山蟹ヶ坂)へ通じた鹿深道も、活動の拠点となった歴史的な古道である。

     油日越(倉歴越・鹿深越)

甲賀と伊賀 (柘植)を結ぶ道。鈴鹿山地は油日岳の西で余野高原に下って終わるが、高原の県境越え油(油日峠)と称した。鈴鹿峠の開通までは大和道(東海道)に通じる要道で、壬申の乱の舞台(油日古戦場)にもなった。

     湖東山辺道(古社寺街道)

鈴鹿山地の湖東側北部に、湖東山辺道と称される古い道がある。多賀大社を起点として、湖東三山や永源寺、さらに八風街道を経て惟喬親王ゆかりの蛭谷、君ヶ畑へ続く信仰の道で、遠ざかる中山道に対して、山越道にも利用された鈴鹿山麓の重要な道でもあった。

     霊仙寺道

霊仙山には八世紀の初頭に霊仙寺があり、周辺には七つの別院があったと言われている。霊仙寺も松尾寺以外の別院もその遺構は知られていないが、往時は寺や別院を巡る信仰の道が存在したはずであり、別院があったとされる集落をつないで霊仙寺道と名付けてみた。

●鈴鹿の山越古道

島津越(五僧越)

巡見街道()から鞍掛(多賀)の間を五僧峠で越える山越道。関ヶ原合戦の時に退路とした薩摩藩の島津義弘軍に因んで島津越と呼ばれている。美濃と近江の交易路として、また多賀大社への信仰路として歴史は古い。道沿いの集落(五僧・保月・杉)は今は廃村。

     鞍鞍掛(大君ヶ畑越)

中山道(高宮)と巡見街道(山口)を結ぶ山越道。近江・伊勢・美濃のいずれにも出やすい道で、戦国期の行軍・多賀や伊勢への参詣・近江商人の交易など歴史は古い。ただし峠の周辺は険阻な道で、現在の国道も不通期間が長い。

    治田越(君ケ畑越)

巡見街道(治田)と君ヶ畑を結ぶ山越道。九世紀ころ惟喬親王が伊勢から君ヶ畑へ来て隠棲した道とも言われ歴史は古い。また伊勢側の道筋で鉱山採掘が行われ、産業道路として賑わった時代もあったが、今では治田峠とノタノ坂の間は廃道状態に近い。

    石榑越

巡見街道(石榑南)から政所に通じた道。茶所(政所)へ通う産業道路でもあったが、崩壊しやすい谷沿い道と二つの峠越(石榑峠山の神峠)の難路で、早い時期に八風街道へ迂回していたらしい。現在も大半は廃道化、峠越の国道も狭隘で相当な難路。

    八風越(八風街道)

中山道(武佐)が起点で県境の八風峠から巡見街道(田光)へ抜ける山越道。中世のころから軍事的な要路で、近江商人の交易路としてさらに発展した。現も峠の八風大明神の祠が往時を偲ばせ、道形も多く残っている。

     千種越(根の平越)

八風街道(山上)か分岐して、津畑から杉峠と根の平峠を越えて巡見街道(千草)へ通じた道。主に近江商人が利用したが、信長が通行中に狙撃された史実も名高い。また県境の西側一帯で鉱山採掘が行われた産業の道でもあった。現在も登山者の通行が多い。

    大河原越(湯の山越)

日野方面から武平峠を越えて巡見街道(菰野)へ通じた山越道。主に近江商人が利用した交易路であるが、湯の山温泉や山岳信仰にも重要な道であった。現在の鈴鹿スカイラインが通る道筋。

⑱ 水沢越(大久保越)

大河原越の途中(深山橋)で分岐して、元越谷沿いから水沢峠を越えた山越道。大河原越に対して水沢や大久保など、南へ寄った道筋に利用価値があったと思われる。現在も登山者がよく歩いている。

     小岐須越(大河原道)

水沢越の途中から分岐して猪足谷沿いから小岐須峠を越えて伊勢(小岐須)へ通じた道。水沢越からさらに南へ出るので、日野方面から鈴鹿や亀山へ利用しやすい。現在も猪足谷沿いは電波塔の道があって峠まで楽に歩ける。

⑳ 小岐須越(鮎河道)

土山町歴史博物館に紹介されている鮎河からの古道。ウグイ川の上流から田村川に出て、アライ谷付近の県境を越えるもので、地形図にも破線が残っている。ただし県境の峠は崩壊(犬帰し険)

㉑ 安楽越(山女原越)

鈴鹿峠に近い東海道(猪鼻)から北へ迂回し、安楽峠を越えて亀山方面に通じた山越道。秀吉軍が伊勢攻略時に通過したり、近江商人の交易など歴史は古い。名前のごとく鈴鹿峠よりも安全で楽に通行できたのかも知れない。現在も道幅は狭いが車両も通行できる。

㉓ 坂下越(白馬越)

深道の中ほどから分岐して、鈴鹿峠の西で県境を越えて東海道に通じた道。鈴鹿峠を避けるための間道か。現在両側から林道が延びているが峠の周辺だけ車両は不通。